過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。
~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~
70系電車は、80系電車に比べると知名度が落ちますが、電化されたばかりの1966年から中央西線で使用されていました。そのころ電化区間は名古屋~瑞浪間だけで、まだ神領電車区もなかった時代でしたから、大垣電車区の所属になっていました。1968年に中津川までの電化工事が完成すると神領電車区が開設され、70系は大垣電車区から神領電車区へ全車が転入し、それとは別に大船電車区からも新たに70系が神領電車区に転入してきました。これでその年の10月からの中津川電化に伴うダイヤ改正への車両配置が整ったわけです。
1977年3月10日 高蔵寺~定光寺
瑞浪・中津川間の複線電化工事は1968年8月に完成し、10月のダイヤ改正を前にして、夏休みに沿線の小中学校の児童生徒を対象とした試運転列車の無料試乗会が催されました。大人たちが10月のダイヤ改正まで乗車できない「電車」に乗れることはこの上ない喜びでした。しかし定員の関係なのか全校児童生徒が対象というわけではなく、私が住んでいた校区では学年が指定され、小学5・6年生と中学1年生に限られていました。私はそのとき小学5年生でしたので、かろうじてセーフとなり幸運でした。学校の行事という感覚で、欠席者もほとんどなかったような記憶で、記念品として国鉄名古屋鉄道管理局からビニールケースに入ったプラ製雲形定規・三角定規1組・分度器のセットと電化工事の概要が書かれた小冊子が試乗者全員に配布されました。
その試乗区間は新規電化開業区間の最寄り駅から瑞浪までの1往復でしたが、折り返す瑞浪ではドアは閉まったままでホームに降りることができなった記憶です。ほとんど遠足気分でしたが、その試乗した試運転列車は同じダイヤで連日運転されていたらしく、駅で何度か見ることができました。その70系は直前に大船電車区から転属したばかりの編成だったようで、所属は初めて見る「東フナ」のままで、そのうちに、これは塗りつぶされて、これも初めて見る手書きの「名シン」に書き換えられました。もう一つ、このとき大船電車区から転属した70系には80系の1等車であるサロ85が3両含まれていました。横須賀線では直前まで1等車として使用されていたのでしょうが、それまで中央西線で使用されていた70系では、サロ75を格下げしたサハ75が使用されており、このサロ85がこのまま1等車として営業するとは思えませんでした。
上の2つの画像のうち、上がサハ75・下がサロ85(サハ75のほうは、サロ75の模型の画像を加工して作った画像です。)
サロ85は、しばらくの間、ドア横の列車種別表示サシに「2等代用」の表示札を挿されて、サロのまま2等車として運用され、のちに正式にサハ85に格下げされていますが、車内はそのまま手つかずでした。
その後、中央西線ではサロ格下げ2扉サハ75とサハ85は3扉に改造されていますが、増設した中央扉横の座席が縦型配置になっただけで、そのまま1等車時代の座席が存置されました。
1978年10月 武並~恵那
(3両目が3ドア改造後のサハ85の100番代)
70系に混入した80系の話をしましたが、ほかにはクハ68がクハ76に混じって運用されていました。丸妻車も平妻車もありましたが、トイレもなくリベットが目立って古臭いスタイルの車両が70系に紛れ込んでいるのが子供にとっては面白くなくて避けていました。中学生になって写真を撮り始めたころも、大切なフィルムはクハ68などに消費するが惜しくて撮影しませんでしたが、それから知らないうちに見なくなり、全車が転属していったのを知ったのはかなり後になってからでしたので、中央西線で走行しているクハ68の姿を私は1枚も撮影できていません。今なら逆だと思うのですが、普通列車より特急、旧式より新型、というふつう?の子供でした。
のちに中央西線から70系が引退した後に、旧形国電を求めて飯田線に通うようになってから、中央西線に在籍したクハ68にも、正統派のほかにクハ55やクロハ59改造車など前歴がある車両もあって1両ごとに特徴があっただろうに、と思うようになり、こういう車両たちこそきちんと画像を残すべきであったと反省したことです。実際に中央西線でクハ68にも嫌々乗ったことは幾度もありましたが、印象に残っているのは、運転室の貫通扉や乗務員側扉の周囲に内側から梱包用粘着テープが貼られていたことでした。隙間風がひどかったからでしょうが、乗った時にそれを見た印象が古いクハ68を一層みすぼらしく思わせたものです。国鉄に就職してからすぐに荷物車マニやスユニに乗務するようになりましたが、乗務員室の扉や窓枠に、クハ68のそれと同じように粘着テープが貼られていたり、隙間に新聞紙を細く折って詰めてあるのが普通で、そのときに小学生時代に見たクハ68を思い出しました。そして自らが中央西線の荷物車で厳しい冬場の隙間風に震える立場になったのでした。
中央西線が全線電化されたあとも、神領電車区の70系運用エリアは全線には及ばず、名古屋~南木曽間に限って使用されました。
1975年8月24日 落合川~坂下
運用区間が限られていたのは80系の記事で書いたように、南木曽以北には高さが低いトンネルがあったことによります。神領電車区のモハ70はモハ80200番台のようにPS23形パンタに交換されることはありませんでした。
<以下、後篇に続きます。>
この記事へのコメント
湘南型
しなの7号
神領の前面窓木枠クハ76は末期まで3両(76031~33)が在籍していたと記憶します。
中央西線
鉄ファン誌72号には古虎渓付近を走行するクハ68が表紙を飾っています。
しなの7号
窓側の座席にありつけないときはクハ76300の乗務員室直後の小窓部分に立つのが好きでした。他の乗客に気兼ねなく窓を開けられました。
RF誌の72号はウチにはありません。創刊号からの表紙がカラーで載っていた200号の折込ページでその表紙を知りましたが、クハ68先頭だったので最初は古虎渓であることにまったく気付きませんでした。(土岐川に架かるアーチ橋がなければ気付かなかった)
ヒデヨシ
おはようございます
中央西線の70系
高校生の頃、名古屋駅で写真を撮っていますので乗った事はあるとは思いますが記憶ないんですよね
客扉がある位置の室内真ん中にポールが鎮座していたのは70系でしたでしょうか?
それでしたら乗っていますね
確かな記憶は岡多線が旅客営業開始してすぐ乗りに行った事がありました
車両は神領区の70系だったでしょうか
新線と中古も中古のアンバランス
当時のニュースで新線に乗りに来た(おそらく)地元女性がインタビューに答え
「新線だというのに電車は古いんですね」
と感想をおっしゃっていましたが
大多数の方の感想は同じだったと思います。
ところで神領から遥かに離れた岡多線
なぜ東海道本線を運用区間としている大垣区の80系ではなく神領区の70系だったのでしょうか?
大垣にも4連もあったのに謎
もしかしたら多治見または高蔵寺まで開業後を見据えて神領区の車両だったのでしょうか?
113系化後もそのまま引き継いて神領区のようだったでしょうか?
中央西線の70系と離れてしまいましてすみません。
しなの7号
遠い昔のことですが、いろいろ覚えていらっしゃいますね。
真ん中ポールは70系ですね。私は岡多線の旅客営業開始直前に国鉄に就職し、東海道本線の荷物列車見習乗務中に試運転中だったと思われる色褪せた70系が岡崎駅の神戸方電留線に留置してあるのを見た記憶があります。東海道筋の70系に違和感を感じた瞬間でした。
岡多線では70系~113系時代は神領の車両を使っていました。私も中央西線とつながって現城北線部分まで全通することを前提にした結果、神領持ちになったのではないかと思います。
つがいけN1
小中学生向けの試乗会があったなんて、意欲的でいいですね。大人に試乗させるよりも波及効果が大きいということなんでしょうね。
ヒデヨシ様の「客扉がある位置の室内真ん中にポール」というと、中央西線では70系以外にも4扉の72系もありましたね。72系は全金属車なので、木の内装であれば70系に間違いないと思いますが。72系は運用区間もさらに狭くて名古屋~瑞浪間限定でしたし、103系と入れ替えに70系より先に引退したので、70系,80系のほうが中央西線の旧型国電としてのイメージは強いです。
しなの7号
試運転列車試乗の件ですが、田舎の子供たちは気動車の半自動扉は知っていても自動で開く扉は知らないし、線路を横断するにしても複線になって列車通過直後の対向列車のことまで考えは及びませんし、電化されたことで感電事故の危険性について教えなくてはなりませんから、安全啓発広報活動的な意味合いも含まれていたと考えます。
たしかに72系にもスタンションポールがありますがロングシートなので、ヒデヨシ様ともあろう方が70系とお間違えになることはないと思いますよ。
1538M車掌
しなの7号
私のアタマに刷り込まれていたのは中央西線の横須賀色でしたので、1538M車掌様と逆ですね。そして中央西線の快速用に転属してきた111・113系に湘南色と横須賀色が混じっていましたが、それは横須賀色に変わっていくものと思い込んでいました。
初期の岡多線にも111系が走っていたのですか。私どもが乗務したころは113系2000番台でしたが、稀に非冷房0番台の111・113系に運悪く出くわすことがありました。悔しかったので?そのときの編成メモは残しています。
80系とは言い難いですがクモニ83単行の名古屋~熱田往復は楽しかった。
早通団地
70系(形?)電車といえばこちらの路線にもなくてはならない存在で、小学校1年生(昭和53年)までは白新線でも乗車してました。
当時はクハ68とか76なんて意味を理解できず、先頭に立つのはすべて70系と一纏めにしてました。
この電車にはちょっと苦い思い出があり、40年以上経過してもその記憶がなくなることはありません。
町へ遊びに行った帰り、早通の一つ手前の新崎駅で客扱い終了後のドアが閉まった瞬間、左手の指が巻き込まれて皮が剥けました。
幸いにも出血することもなく、挟まれたままということもなかったので自宅到着後、絆創膏をはってました。
小学校1年生のときは学校が早通駅のすぐ近くでしたので、授業中でも加速&減速音が教室に響いてました。
そんななか、昼休みに見る村上行きの列車が黄色と赤の電車ではなく、緑とオレンジの電車に変わりました。緑とオレンジといっても80系ではなく、音は明らかに違いました。両開き扉なのに急行佐渡と同じ電車だ~!と思い込みもいいところ(笑)。それが115系1000番台との初めての出会いでした。
白新線での70系運用がいつ終了したのか記憶がありませんが、2年生に進級したときは見かけることはなくなり、同時に茶色の電気機関車EF15(16?)が牽く貨物列車も見なくなりました。
現在、新潟に所属する115系の一本に70系時代のカラーリングを施した編成がありますが、新潟生え抜きの車両はなく、すべて長野からの転属組です。また、昨年のダイヤ改正で白新線の運用は撤退してしまいました。
国鉄型車両、もう風前の灯ですが、いつまでも記憶に残しておきたいです。
しなの7号
高校生のころ越後交通栃尾線の写真を撮りに行ったとき、長岡駅と新潟駅で新潟色の70系を見ましたが、特徴のある色が印象に残っています。1両だけスカ色のクハ76が紛れ込んだ編成でした。
今の車両はどうだか知りませんが、国鉄車では気動車の自動ドアより電車の自動ドアのほうがドアエンジンの圧力が強かったので注意が必要でした。113系に乗務しているとき、無人駅に到着してドアを開けたら、乗ろうとした子供がドアと車体の間に指を挟まれたことがありました。
最近は復活国鉄色が流行していますが、JR世代の車両を国鉄色にする例も多く、どうもウソ電っぽく映ってしまいます。そういう中で70系時代の新潟色をまとった115系には、そういう違和感があまりありません。国鉄形であることと塗り分けがオリジナルの115系と同じだからでしょうか。こちらでは国鉄形車両による定期旅客列車がなくなって久しいので、なかなか国鉄形車両に乗る機会がありません。
※「【965】中央西線を走った車両20 :475系電車と72系電車」の本文末尾に書いたのですが、「本来、旧形電車に○○系と表記するのは誤りかと存じますが、ここでは通称としてクハ79・モハ72のグループを72系と表記しました。70系についても同様です。」ということですので、ご容赦ください。
東海のどら猫
しなの7号
中央西線の70系の引退は1978年でした。