過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。
今回は先週の70系電車の続きです。
~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~
神領電車区の70系は6両編成で運用されていました。
1978年10月 釜戸~武並
そのほか朝夕の増結用(岡多線の旅客営業開業後は岡多線用としても使用)として4両の付属編成もありましたので10両編成も組んでいました。一時期12両編成もあったと記憶しています。10両編成以上で中津川まで入っていた70系定期列車は私が知る限り1往復だけでした。
<ある日の10両編成の記録>
1969年4月28日 626M
6:29中津川発=8:07名古屋行
クハ68082
モハ70116
モハ70044
サハ75004
モハ70078
クハ76305
クハ76030
モハ70307
モハ70018
クハ68075
(所属名未確認ですが、全車「名シン」と思われます)
4両・6両編成とも、両端のクハがどちらもクハ68という編成は見たことがなく、それはたぶんクハ68にはトイレがないからだと私は思っています。しかし10両(6両+4両)になると、この例のように両端がクハ68になることがありました。当時の私はクハ68に対して偏見を持っていたこともあって、こういう編成は嫌いで、中間にクハ68が向かい合わせになる編成は10両固定編成みたいに見えたので好きでした。
このころ、70系10両編成を使用した臨時列車が運転されていました。春の大型連休中には、潮干狩客、夏は海水浴客向けで、中津川~西小坂井間の直通運転でした。
1969年5月4日 8634M
中津川発 西小坂井行
クハ76008
モハ70084
モハ70108
クハ68023
クハ76302
モハ70036
モハ70306
サハ75015
モハ70030
クハ76003
(所属名未確認ですが、全車「名シン」と思われます。名古屋から逆編成)
この行先標はたぶんホンモノだろうと思いますが、「西小坂井」(にしこざかい)のアルファベット表記が変です。「NISHI-KOZAKAI」とすべきでは?
上の2本の列車は、どちらも自分が乗車したわけではなく、駅で停車中の列車の形式番号を大急ぎで書き写したものです。両方とも10両編成ですが、付属編成の連結位置が逆になっていました。このときの8634Mの時刻は正確にはわかりませんが、上に書いた626Mの10分くらい後を続行するダイヤで運転されていた記憶です。
この編成を記録した翌年1970年夏の時刻は時刻表(名古屋鉄道管理局発行ポケット時刻表’70夏版・臨時列車のページから抽出転載。画像左側)からわかりました。私の記憶と一致するので、編成を記録した日の8634Mは、この時刻表記載の時刻とほとんど変わっていないものと思います。
快速「大島1号」8634M
中津川6:36-8:19名古屋8:23-9:28西小坂井
快速「大島1号」8633M
西小坂井15:11-16:41名古屋16:44-18:40中津川
たしか、この列車を利用する日帰りツアーを募集する掲示が駅にあったので、この列車の存在を知ったように記憶します。
中央西線の70系には全金属車300番代が含まれました。
着席競争率の高いサハ75またはサハ85の座席にありつけそうもないときや、相席になりそうな場合はなるべく300番代のクハ76に乗車するようにしていました。吊掛式の電車が当たり前にあったころでしたから、その気になって吊掛サウンドを聞くつもりはまったくありませんでしたので300番代でもモハは避け、なるべくいちばん空いている名古屋方先頭のクハ76に乗車するようにしていました。当時の私は吊掛サウンドは耳障りに感じました。
1978年10月 恵那(先頭が300番代のクハ76)
クハ76には正面窓の縁がHゴム押さえでなく木枠のままの車両がありました。これは乗る立場でなく撮影する立場での狙い目の車両でした。これだけで表情がずいぶん違って見えたものです。
1977年3月13日 古虎渓(先頭が正面窓木製枠のクハ76)
1973年に中央西線の全線電化が完成したときに113系が神領電車区に配置されると、日中の快速を中心に113系が運用されるようになり、70系の列車が来ると「ハズレ」のような気がするようになりましたが、しばらく共存する時期が続いて、70系が中央西線から引退したのは1978年でした。後継の増備車は113系2000番代で、ローカル用車両はいつでも首都圏や京阪神の中古車両ばかりだった神領電車区ではたぶん初めての新製配置車両だったと思います。
1978年12月17日 神領電車区(最終運用終了後)
70系の最終列車には惜別のヘッドマークが掲げられましたが、臨時運行ではなく定期列車で、80系に比べて地味な70系らしい最期だったとも思えます。「中央本線は横須賀色」と刷り込まれていた私のアタマの中も、そのころには80系や113系の湘南色を受け入れられるようになっていました。70系亡きあとの中央西線では113系と103系の時代が国鉄末期まで続き、国鉄最後のダイヤ改正で117系が日中の快速を中心に仲間入りし、国鉄分割民営化を迎えました。
それらのローカル用後継電車103系・113系・117系については、過去に
で、国鉄時代の中央西線での様子を綴っています。いずれも古い記事ですが、同じことを繰り返し書くことでもありませんので、この「中央西線を走った車両」のシリーズ記事では割愛させていただきます。
そうしますと、このシリーズ記事で国鉄時代に中央西線の定期列車で使用されていた車種については連載終了となります。このあとは、中央西線で走った団体臨時列車や、回送列車などの非営業列車について、引き続き連載してまいります。
この記事へのコメント
快速南木曽
その始発の前に送り込みだと思うのですがシティーライナー色の211系の回送が中央西線を走っていました。
新造で神領に配属された国鉄最後のダイヤ改正の時からあったのでしょうか?
しなの7号
国鉄最後の61.11ダイヤ改正時から春日井~名古屋間に211系回送列車がありました。
【197】乗務した車両:211系0番台
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201108article_9.html
の中で触れていますので、211系について新たな記事は起こしませんが、本文末尾に書いたように回送列車の記事の中で、上のリンクを貼る予定でおります。本文最初に書いておりますように、国鉄時代に走った車両を網羅するわけではないので、あらかじめご承知おきください。
中央西線
自分が最後の70系乗車はさよなら運転の編成のクハ76302でした。当時3編成中2編成は既に113系2000に置き変わってましたのでハズレ感がありましたが後で考えるとあれで良かったと思います。さよなら列車は既に運用が終わった後、運用の都合のよいスジに特別に入れたと聞いています。
NAO
塩干狩り向け列車にしてもあくまでも時刻表、表題を含めて東京方向起点で掲載されているので、中津川、美濃太田への臨時列車にも見えます。
しなの7号
中津川でよく見た652M豊橋行は記憶しています。さきほど時刻表を当たってみましたら、豊橋行は44.10で出現し46.4改正時で消滅しています。当時の運用がわかる資料は持ち合わせていませんが、10両編成ではなく6両編成だった記憶です。というのは私が中津川で見ていたからで、神領で4両増結して10両になったということなのですね。時刻表を見ると652Mは高蔵寺発~神領発の所要時間が8分と異常に長いです。翌日の運用はまったく知りませんでしたが、631M(中津川行)・635M(多治見行)ともに時刻表上で春日井発~神領発の所要時間が7分ありますので、神領切り落としでしょうか。631Mは中津川行で、4両だった記憶はなく6両編成だったと思いますので、名古屋~神領間は他の6両編成と併結10両だったのではないかと考えますが合ってますでしょうか。
70系のさよなら運転の日は、できれば地元で走行中の撮影をしたいと思っていたのですが、勤務明けの日でしたので名古屋到着にも間に合わず、帰宅するときに神領電車区に立ち寄って撮影したのが掲載した画像です。
しなの7号
突っ込みどころがいくつかあるサボですが、ほほえましくもあります。
時刻表の記載について、他のページを見ても、東京方向起点にこだわってはいないようですので、このページだけがおっしゃるように不自然で、本来の臨時列車の使命を正しく現していませんね。
中央西線
550Mは西小坂井で一泊、翌日の527Mは米原行きで大垣で4両分割され、6両となる。折り返し540Mとなり、名古屋で11番線に転線し642M4両と連結し635M多治見行きとなり神領で後寄り6両分割。名古屋神領間は10両、大垣で分割の4両は534Mで名古屋に戻り、7番線に転線し2638M6両と連結し631M中津川行きとなり神領で後寄りの4両分離して入区。名古屋神領間は10両。
しなの7号
ありがとうございました。限られた情報と記憶から半世紀前の運用を読み解くのも、鉄道趣味の味わいです。
ヒデヨシ
70系はそれほど身近ではなかったですが
好きな車両でした。
ところで 西小坂井 表記
漢字の下にそのままアルファベットとを書いているんですね
たしかに変ですね
これとは関係ないのでしょうが三河で働いていた時、当時の年配者の多くが'こさかい''にしこさかい'と発音していたのを思い出しました。
先頭車の件
私も両端で揃っていて欲しい派です
特にボンネットタイプや流線形タイプ
キハ81くろしおの晩年片側のみ81とか
KATO製品のクモハ52が片側のみとか許せん・・です
反対に先頭車の中間組み込みは大好物
運転台が切妻連結側に連結されるタイプ
くろしお2/5号の中間キハ82、やくもの基本に増結編成がつくのとか
地下鉄名古屋市3000系、これが来たらホームや車内を移動してわざわざ中間運転台部分に陣取ります
ただこの編成の中間先頭車は中間車改造されて運転台の機能は無くなっております
今度鉄コレで出るそうで・・
話それました、ごめんなさい。
しなの7号
漢字の下にそのままアルファベットが書かれた例は、駅名標でもあったような気がします。
小坂井の読み方には、地元の人しか知らないような経過があったのかもしれないですね。
先頭車の件ですが、子供のころのクハ68に対する偏見に加えて、クハ76が流線形不貫通形なのに、それが10両編成で中間に押し込められ、貫通形クハ68が先頭に出ていることに納得しかねました。両端キハ82の編成中にキハ81を閉じ込めたような感覚…とまでは言えませんが…
一方で、私はNゲージ模型では、両端が異なる先頭車の編成を再現したくなる方です。キハ81も増結セットの1両だけしか持っていません(*'ω'*)
門鉄局
しなの7号
新年度になりました。32年前の今日はJRの「乗車券」を買って転職先に初出勤した日でした。その前日国鉄最終日3月31日は年休でした。最終乗務はすでに3月28日に終えており、もうどこにも出かける気力もなく、テレビで国鉄最後の日の特集番組を見てました。70系はそのときすでに過去の車両になっていたわけですが、国鉄に就職してからも日常的に通勤で乗ってきました。そのころの名古屋駅に現れる車両の種類は多種多様で鉄道趣味の原点となりうる場所でした。今は列車の本数は格段に増加したのに、在来線ホームはオレンジラインのステンレス車ばかりで、そう思うと国鉄時代でも0系しか来ない新幹線ホームの感覚に似ています。
旧国全金車は他の同系旧型車と別枠扱いされることなく廃車されることが多かったですね。 80系のように70系も300番台のサロやサハがあったら編成はもっと面白くなったのにと思います。
大曽根最寄り
電化して間もない頃 常光寺付近大雨 70系転覆事故、
復旧に時間がかかっています。
しなの7号
定光寺・高蔵寺間の脱線転覆事故は昭和42年の梅雨時だったと思います。
開通後しばらくしてから、転落した電車のうち最後の1両(モハ70)がまだ法面に横たわっているのを車窓から見ました。
風旅記
旧型国電が当たり前だった当時、敢えて車両に注目することも少なかったのだろうと思います。
今から振り返れば、お写真のような列車に乗って旅してみたかったと感じますが、吊り掛けの音も“当たり前”の中ではうるさいだけだったのかもしれません。
今の最新の315系にはまだ乗ったことがありませんが、真っ先に新車が走り始めるようになり、中央西線の位置付けがお写真の頃とは大きく変わったのだろうと思います。
沿線の風光明媚な景色をまたいつか、眺めに行きたくなります。
しなの7号
うるさいだけだった吊掛音も“当たり前”でなくなると、また乗ってみたいと思うものですね。旧形国電どころか国鉄新性能電車のモーター音も懐かしく感じてしまうこの頃です。315系8両に統一された中央西線名古屋口の今の“当たり前”もまた、今の子供たちが大人になるころにはきっと“当たり前”ではなくなり、この日常を振り返るときがくるのでしょう。
沿線の風景は宅地化や都市化が進みますが、車窓から見る美濃や木曽の山々はそう簡単には変わることはなく、これから先も中央西線を往来する旅人の慰みになっていくでしょうね。
風旅記
315系はこれからの時代を担う車両、暫くは中央西線の顔として活躍するのだろうと思います。
今乗れば新しい車両の音に聞こえるだろうと思いますが、確かにそれもまた時代と共に感じ取り方は変わるのでしょうね。
木曽路の変わらぬ素朴な車窓を、その時々の第一線で活躍する車両に乗って楽しみたいものです。
お写真にもあります古虎渓駅、私はまだ降りたことはなく車窓に眺めただけですが、いつかゆっくりと訪ねてみたいと思っています。
最新の車両が停まる様子も見に行きたくなりました。
しなの7号
315系はこれからも中央西線の顔として活躍することでしょう。実は近年は鉄道そのものを利用する機会がめっきり減りまして、315系にはまだ一度も乗ったことがありません。ロングシートになった反面で、これまで4両から10両までばらつきがあった編成両数が8両に統一されたことによって、通勤時間帯を除けば,着席機会が減ることもなく、乗客数が少なくなる岐阜県内ではさらにゆったり移動できそうにも思えます。(中津川以北は転換クロス313系が健在です。)
最近は定点比較の画像なども撮影していますので、315系電車に乗って古虎渓を訪ね、70系を撮影した同じ場所で315系を撮ってみようと思っています。
おんたけ号
こんにちは。
今は車両№等を気にするようになりました(315-1トップ№だ。
313-1313で1と3だけだとか)が、当時は編成や№を気にする知識、意識も無かったので、改造車や個体に違い、特徴があるなどまったく知りませんでした。知識があれば乗車時の楽しみとなったのに残念です。
少年ジャンプにハマっていた時期、近所の店では月曜発売だけど、名駅のキヨスクは日曜に販売していたので70系に乗って買いに行ってました。(確か荷物車関係の記事に雑誌等は1日早いとかあり、納得しました)
車内の記憶も窓が開けれる事、灰皿が有った事ぐらいで詳細には記憶無しです。トイレは覗きに行きました。これについては別記事にコメントします。
毎度、しょーもない思い出コメント投稿で失礼いたしました。
しなの7号
今は専門書や鉄道雑誌を買わなくても、鉄道車両の情報を仕入れることが容易にできる時代ですので、たとえ鉄道ヲタクでなくても、車両のわずかな違いを知ることができますね。315系ばかりになった中央西線ですが、すでに315系にも、先頭車の信号炎管の有無やスカート形状など、仕様変更されたことが外観からわかる編成が見受けられます。そういうところに目を向けると、お楽しみ?が増えるものと思います。年月の経過とともに新型も70系のように形態の違いが出てくるのでしょう。
国鉄時代に荷物列車で汐留から輸送された雑誌は、東海道本線の荷物列車停車駅のKIOSKには、いちばん早く着くわけですから、(店舗が発売曜日を守るかどうかは別にして)物理的には市中より早く店頭に並べることができたのでしょう。70系が走っていたころの名古屋圏の国鉄には禁煙区間も設定がなかったですから灰皿がない車両のほうが珍しかった時代ですね。
おんたけ号
こんにちは。連続発車失礼します。
流石管理人様。違いを良く見ていらっしゃる事に感心します。
1w程前、いつもの通勤時の104MにC105(4両)+C106(4両)が
入線して来て、「???関西線用なのでは?」と。
考えれば将来的には東海道本線にも導入らしいので、西線に
使用されても不思議では無いのですね。(日車戻りの代走か?
10月に帰宅時に乗った313系がそうらしいので)
QRコード、電連付き、「海シン」表記なし。連結部では警告
音声あり。(HC85と同じ音声に聞こえました)
トイレが2か所あるのは良い事ですが。(313系1300番台2両編成×4の8両編成のトイレ4か所には及びませんが)
何故に煙管付けるの止めたのか?なら最初から付けなきゃ良い
のに。(運転室に煙管使用禁止と貼ってある車両もあるのだから)
70系から脱線したコメント、失礼しました。
しなの7号
C100編成が中央西線で運用されているのも情報として存じていますが、走っているのを見たこともないですし、なにしろ315系には未だ乗ったこともなく、HC85に至っては見たこともなく、おそらく今年は一度も鉄道やバスに乗らない年になると思われますから、私の現在の鉄道やバスに対する思いがわかろうというものです。地元中央西線の移り変わりは気に懸けていますが、70系がいた時代に気持ちは戻っていきます。
防護無線が運用されるようになったのは国鉄最末期でしたから、私にとっては乗務員室に信号炎管の設備がないなんて想像もできないことで驚きでした。