【981】 平成時代の鉄道と私(平成21年~平成31年)

平成元年から平成31年まで撮影してきた鉄道関連の画像のうち、なるべくいままでアップしていない画像を選んで、各年1枚ずつ3回に分けて順にアップしています。今回は平成21年から平成31年までです。


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平成21年(2009年)

この年あたりから通勤時にコンデジを常に持ち歩くようになり、通勤途中や昼休みに日常の鉄道風景を撮影するようになりました。このころになると通勤経路で見ることができる国鉄形旅客車両はかなり限られたので、カメラを向ける先は貨物列車が多くなりました。
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<平成21年11月20日 中央本線春日井駅 EF66>

諸事情で出かけることが少なくなり、中山道歩きは前年末から1年放置した後、この年の年末に東京へ出かけたついでに一泊して、朝から一日で戸田公園駅から日本橋まで歩いて草津~日本橋間完歩達成になりました。


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平成22年(2010年)

出かけることが少なくなった代わりに、この年に拙ブログを開設しました。以後の私の行状は随時ブログにアップしていますので、なるべく重複しない画像を選んで貼っていきます。
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<平成22年3月9日 放出駅 103系>

国鉄時代の「城東貨物線」で、平成20年から新たに「おおさか東線」として一部区間で旅客営業が開始されていましたが、未乗のまま放置していましたので、この年に初乗りをしました。先日「おおさか東線」の北区間が開業しましたが、何かのついでがあれば乗りに行くつもりです。

6年間に17回続いた「清酒ん18きっぷの旅」はこの年で終わり、同じメンバーで「50代5000円でGO!」という格安貧乏旅行に移行しましたが、私も含め各人に諸事情が生まれ長続きしませんでした。現在はメンバーの1人が関西方面に転居してしまいましたが、お互いの居住地近くまでどちらかが旅?をして飲むという、旅とも飲み会ともつかない行動は継続中です。


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平成23年(2011年)

この前年からJR東海の117系が撤退し始めていました。1編成が「トレイン117」に改造され、季節によって管内の臨時列車に使用されていました。
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<平成23年4月16日>

画像はこの年の春に名古屋~大垣に運転された「水都大垣トレイン」ですが、「トレイン117」には、この前年に乗車したことがありましたので、この「水都大垣トレイン」には乗車していません。改造後わずか3年ほどの短命な簡易ジョイフルトレインでした。


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平成24年(2012年)

新幹線のSuicaラッピング編成が、夏と冬にそれぞれ2編成ずつ走りましたので、東京駅に2編成が同じ時間帯に現れる日を選んで見に出かけました。
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<上2枚 平成24年8月1日・下2枚 平成24年12月8日・すべて東京駅>

もう国鉄形車両はほとんどが姿を消しましたし、復活国鉄色などの人が集まるイベントには興味がなかったので、こういう行動になっています。


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平成25年(2013年)

地元で常時見ることができる国鉄形車両と言えばJR貨物の機関車くらいになりました。
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<平成25年12月1日 関西本線(「四日市港線」)末広橋梁>

四日市~四日市港間にある跳開式可動橋梁です。国鉄形車両や列車が絶滅に近くなった今、身近にありながらあまり意識して訪れていなかった施設や鉄道遺跡にも目を向けるようになりました。


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平成26年(2014年)

時の流れとともにJR貨物の機関車も新型に置き換えられてきました。
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<平成26年9月2日 篠ノ井線 南松本駅>

地元中央西線では国鉄形EF64 1000が稼働中ですが、ちょっと出かけると、こういうありさまですから時代を感じます。ぽつんと見えるヨ8000だけが国鉄を伝えています。


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平成27年(2015年)

この年は名古屋臨海鉄道設立50周年だったそうで、DD13タイプの自社発注機ND5527を復刻塗装にされたとのこと。国鉄時代には、笠寺でこの国鉄色とよく似て異なるこの塗装の機関車が牽いてくる貨物列車を引き継いで乗務したものです。
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<平成27年12月17日 名古屋臨海鉄道 笠寺駅>

台湾国鉄プユマの甲種輸送のときの画像です。この日はプユマ側のブレーキに不具合があったらしく、ここで抑止になってしまいました。


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平成28年(2016年)

 愛知機関区の解体線にEF65 2121(改番前1121)が入ったとの報が入り、最後のお別れをしてきました。
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<平成28年4月27日>

数少なくなった自分の乗務列車を牽いた機関車が、また1両お亡くなりになりました。EF65 1121との付き合いは「【169】臨時列車の乗務(8):広島の14系座席車」で書いています。



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平成29年(2017年)

この前年、一時は再起不能ではないかと心配された名松線の家城~伊勢奥津間が6年半ぶりに復旧していましたので、混雑がなくなったころを見計らって、前年に続いて復旧後2度目の訪問をしました。
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<平成29年12月13日 名松線家城駅>

もとのローカル線らしい閑散とした状態に戻っていました。伊勢奥津にある酒蔵が廃業してしまったことが惜しまれます。



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平成30年(2018年)

今、中央西線で走っている国鉄世代の車両はJR貨物のEF64 1000だけです。
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<平成30年12月25日 中央西線 定光寺~高蔵寺>

うれしい誤算ですが、全般検査で順次国鉄色へ戻りつつあり、もう見られないと思っていた国鉄色重連が見られることもあります。地元の線路端でこれからあと何年続くかわからない姿を見届けたく思っています。


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平成31年(2019年)

平成時代の締めくくり画像は、地元で撮影したJR東海383系とします。
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<平成31年4月18日 中央西線 勝川~春日井>

撮影した列車は名古屋発10時00分発の「しなの7号」長野行です。国鉄分割民営化翌年の昭和63年3月のダイヤ改正による増発があり、平成元年当時には、この時刻の特急は「しなの11号」になっていましたが、時が流れ令和元年を迎えようとしている今、名古屋発10時00分発の長野行特急は、私がいつも乗務していた国鉄末期と同じ「しなの7号」に戻っています。車両が新型に代わっているとはいっても、30年以上も前と同じ時間帯に同じ列車名の特急が同じ区間を走っていて、こうしてフラリと線路端に出かければ、いつでもその列車を見ることができます。


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本日平成31年4月30日が、平成最後の日になります。昭和最後の日は、昭和64年1月7日でした。昭和天皇の病状悪化がその前年秋ごろから伝えられており、お祭りやイベントの自粛ムードが続いていたあの日と比べれば、平成最後の日の巷の様子は、そのときとはまったく違って映ります。
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その昭和64年1月7日は土曜日でしたが、当時は完全週休二日制ではなかったので私は出勤日で、今や死語と化した「半ドン」でしたからお昼まで仕事をして、その帰りに駅で昭和最後の日の入場券を買いました。
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国鉄が解体されたのは、それより前の昭和62年でしたから、国鉄があった時代とはずいぶん前のことだと今さらながら思います。このたび平成時代の鉄道と私の関わりについて3回にわたって書きましたが、平成時代の私は、国鉄から転職したことによって、不規則な勤務形態から解放されて、「人が休むべきときにはほぼ休むことができる仕事」に就くことができ、比較的自由に休日を過ごし、ときには有給休暇も使って出歩くことができたことは幸いでした。

「昭和の鉄道員」が国鉄に在職した11年間の話を書くのに、拙ブログを開設してから9年もかかってしまいました。そんなにかかってしまった原因は自分の能力のなさによるところもありますが、私の国鉄在職時代が平成の30年に比べ半分にも及ばない11年に過ぎないのに、書き残しておきたいことが多かったということでもあり、言い換えれば国鉄での不規則勤務に辟易しながらも、好きな仕事ができて充実していた期間でもあったと言えるのかもしれません。いちおう書くべきことを書いたので、正月に予告いたしましたように、5月からは新規記事の定期更新は行いません。平成時代に入り、99%の偶然の繰り返しのなか、幸運なことに令和の時代を迎えることができたわけですが、このブログはもちろん、私も皆さんも、この世にあるモノすべては、いずれは国鉄のように?間違いなく100%終わりのときが来ます。そういう限りある時間の中にさまざまな思い出を作ってくれた国鉄に、そして旅に誘ってくださった友人たちに、直接間接を問わず関わりがあったすべてのモノに感謝します。


拙ブログ開設後、いろいろあった9年でしたが、この間にかなり不用品を処分でき、残したものは平成の終わりまでに整理整頓がほぼ完了しました。令和の時代は、その国鉄時代の資料とか、買ってから一度読んだだけで、以後何十年と目を通していない鉄道雑誌などを読み返したいと思っております。そういう行動をしていれば、忘れてしまっていたことを思い出し、それを反芻することになると思いますので、また書くべきことがあれば、その都度ブログでアップします。また、他人さまにはゴミ以外の何物でもないような「くだらない収集物」などをご披露することも考えていますし、少なくとも新年のご挨拶などは、ウェブリブログがあるうちは、従来どおりここから発信してまいりますので、たまには覗いてくださいませ。

当面は、とりあえず連休中にどうでもいい記事を1本アップする予定がございますが、それ以後は、新規記事アップ予定時期や、その内容を予告できるような状況にはなく、ブログは放置状態になりますが、今後ともよろしくお願いいたします。

この記事へのコメント

  • 3RT生

    しなの7号様、こんばんは。

    貴ブログでは「入換通告券」以来、様々なことを学ばせていただきました。誠に感謝に堪えません。荷物列車のこと、客車や気動車の暖房など、小生が国鉄時代に見聞したことが、目の前に蘇るようでした。
    この度の平成時代の記事を拝見しますと、古い資料のみならず、お忙しい中継続して詳細な記録を積み重ねて来られたことに、改めて驚嘆するばかりです。やはり国鉄型がいいですね。今回の記事ではDD13、DD51に魅力を感じます。
    小生は学生後半からの記録が途切れてしまっていて、また鉄道からはなれてしまった時期もあり過去のことがなかなか思い出せない状況でした。そのような中、「あの夏」に始まる良き昭和の時代を再び噛み締めることができました。そうしたことが、遅々として「発掘」が進まない拙ブログ継続の原動力にもなっております(汗)。しばらく休んでいた現場でも、まだ残せる昭和の鉄道テイストを伝えるべく努力したいと思います。

    今回はさよなら運転みたいになりましたね。昭和の香りがどこからか薫ってくる名シーンがありましたら、ぜひ臨時列車の設定をお願い申し上げます。ありがとうございました。
    2019年04月30日 20:38
  • しなの7号

    3RT生様 こんばんは。
    「あの夏」は、中央西線から離れた私の第一歩だったように思いますが、時を同じくして小学生でありながら国鉄の現場を探求されていた方がおられたことには、こちらこそ驚嘆でした。私の平成をご覧いただいておわかりのように、鉄道の中での興味の対象は浮気状態であって一貫性がないことはお恥ずかしい限りです。
    平成29年の名松線行きでは、同行者が駅勤務経験者でしたので、票券閉そく式のことが話題に上がりました。ずっと乗務員で地上勤務を経験していない私は、まだまだ知らないことがいくらでもありますから、貴ブログで勉強させていただかねばと思います。車掌でも閉そく方式の学習は必須ですが、研修機関でも「票券閉そく式というのは、乗務範囲内にはないから省略」みたいなもので名称を覚えただけです。
    特に閉そく方式については、非常に稀有な視点からの貴重なご研究かと思いますので、失われた鉄道を新しい切り口からご紹介いただき記録として遺していただきますよう、貴ブログの発展を祈念しています。
    とりあえず、拙ブログは一つの区切りを設けましたが、終わりではないので、今後ともよろしくお願いいたします。
    2019年04月30日 21:43
  • うさお

    しなの7号様 こんばんは。
    平成の終わりと共に一旦休止になるのかなと思いつつ、国鉄時代の乗務資料と共に色々と貴重な情報を記していただきありがとうございました。
    列車掛や乗務掛、車掌補などといった裏方さんの情報は仕事をしてきた方でないとわからないので、きちんとした形で残していただけたのはありがたかったです。
    国鉄も無くなって32年。今はJRの車両を見ても何系ともわからない私ですが、国鉄車両だけはパッと見てわかるのが・・・。そんな国鉄車両もだいぶ少なくなりました。
    東海道本線で185系踊り子号が走っているのが不思議ですが、それも長くは続かないでしょうね。
    臨時運行で資料を読み込んで思い出したことがありましたら、貴重な情報として提供いただけるのを期待しております。お疲れ様でした。
    2019年04月30日 23:04
  • おき2号

    しなの7号様、こんばんは。
    私は新型導入が遅れた地域だったので、高校時代ずっと113、115、117系など国鉄型で通い、小さい頃にはDD51の所属する機関区もよく見ていて親しみがあったので、このブログでは過去のことを知るのと同時に自分の乗った車両を知ることができてよかったです。また、いろいろ教えてくださりありがとうこざいました。
    平成で大きく数を減らしてしまった国鉄型ですが、令和の時代も頑張り抜いて欲しいですね。
    このブログの臨時便も楽しみにしています。
    2019年04月30日 23:50
  • 門鉄局

    しなの7号様、こんばんは。
    平成に改元当時すでに国鉄ではなかったわけで、次第に遠ざかってゆく国鉄時代が悪い話ばかりが誇張され伝えられていくことを懸念していました。国鉄赤字の主な原因であった与党による政治介入についてはほとんど語られることなく、職員の傍若無人さが組織を壊し、対抗した「改革3人組」が勝てば官軍で美談とされることに歯がゆさと腹立たしさを感じていた時に出会ったのが御ブログでした。当時の国鉄現場の状況が臨場感あふれる文章とともに語られ更新が楽しみでした。コメントに対し丁寧な返事をされていることにも好感が持て、数年後思い切って投稿してみることにしました。最初にお返事をいただいたときの感激は今も忘れません。
    国鉄入社こそ叶わなかったものの現役の鉄道員である私には
    接客や放送など業務にもかなり参考にさせていただきました。令和に時代は変わりましたが、鉄道は休むことなく動いており私も今日も朝から乗務です。とりあえずお疲れさまでしたですが、臨時列車しなの51号の運転も期待しています。
    2019年05月01日 00:29
  • しなの7号

    うさお様 こんばんは。
    国鉄の存在そのものが風化しつつある中、たとえば荷物輸送を貨物輸送と混同される方が大多数だと思います。そうした乗客の立場では見えにくい国鉄の仕事に関する記事に興味を持ってご覧いただけたことこそ、ブログを始めた意味があったというものです。ありがとうございました。
    私も今のJR各社のことは知らないことばかりですが、それよりも、たまに見る国鉄車両の履歴や今後の行く末のほうに気が行ってしまいます。もとより国鉄車が今のも新型車より優れていると思っているわけではなく、国鉄車は同じ職場に在籍した仲間のような感覚ですから、自ずと個人的な思い入れが強くなるのです。その車両たちの30年間の生きざまには共感することさえあります。
    今後も、整理した資料や雑誌などから、追加や補足的な記事をアップすることがあると思いますので、よろしくお願いいたします。
    2019年05月01日 20:37
  • しなの7号

    おき2号様 こんばんは。
    国鉄形車両は、ほんとうに数を減らしていますが、30年以上も経ってしまうと無理もないことで、現役で残った車両たちはよく頑張っているなと思います。誕生時のオリジナルとはかなり姿かたちが変わった車両にも、それなりの理由があったわけで、それはそれとして受け止めたいと思います。また国鉄時代の古い画像などもアップすることもあると思いますので、たまには覗いてください。
    2019年05月01日 20:38
  • しなの7号

    門鉄局様 こんばんは。
    元号が変わり、またまた昭和の時代が遠ざかったなあというのが、私の令和初日の印象です。昭和の時代に一連の国鉄改革の渦中に巻き込まれて、人生の分岐器の切り換えをする結果となったのは、国鉄職員だけでなく国鉄入社を目指していた方も同じでしたね。門鉄局様の場合、辛い仕事であってもやっぱり鉄道は天職だったと思える日が来ます。鉄道員は厳しいながらもやり甲斐のある仕事ですから。。。私は「天職」→「転職」でシャレにもならない半生で真逆を行きましたが、本文に書いたように転職先では休むべきときには休むことができ、休日も自由に過ごし有給休暇も使える人間的な生活で、鉄道とはしっかり関わってこられたことは幸せでした。その代わり、やり甲斐のある仕事かどうかは「?」でしたが、そこは考え方ひとつなんで。。。)

    自粛ムードだった昭和最後の日とはまるで違って、明日から令和!と祝賀ムードだった昨日、私は改元関係一色のテレビを見ながら、国鉄最後の日である昭和62年3月31日にテレビ各局が国鉄からJR!の祝賀ムード一色だったことを思い出していました。(除テレビ朝日)
    このブログの中でも国鉄改革の話題は避けて通れなかったのですが、門鉄局様から好意的な内容のコメントをいただけたことは、記事を書く上での大きな力になりました。どうもありがとうございました。
    HNを「しなの51号」にしないといけませんね。と、言いながらも「7号」で通しますが、今後もよろしくお願いいたします。
    2019年05月01日 20:38
  • 早通団地

    こんばんは。まずは一言、お疲れ様でした。

    2012年頃、適当にネットサーフィンしてたら急行赤倉号のお話しがあり、それを記事にされてる方がなんと元国鉄マン(と言う呼び方もいまはしませんね)。
    地元路線を走ってた訳ではありませんが、乗車した経験から初めてコメントさせていただきました。
    その後も赤倉号のお話しがいくつかあり、自分でもいろいろ調べたら赤倉号の前運用は白新線を走ってたことが判明し、驚きました。

    さらに驚いたのが、国鉄時代に管理人さんが通学の足として乗車していたキハ52にJR化後に自分も乗車していたことにもビックリ。しかも2000年代後半に入ってからです(笑)

    模型のお話しも楽しく拝見させていただきました。文章のなかで、自分にも心当たりがあるある…。そんな記事も多かったです。

    あまり頻繁にコメントできず、申し訳ない気持ちです。共感出来る記事がありましたら、いま以上にコメントさせていただきたいと思います。

    改めてお疲れ様でした。更新、楽しみに待ってます(^^♪
    2019年05月01日 21:01
  • しなの7号

    早通団地様 こんばんは。
    どうもありがとうございます。
    長距離列車赤倉を、遠く離れたお互いが見たり乗ったりしていたことも、広範囲の車両転配によって流れ流れていった同じ車両をまったく違う時代に利用していたことは、国鉄なればこその事象ですね。昔のことを調べていくと、いつも乗ったり見たりしていた車両の知らなかった意外な事実や経歴に突き当たったことは幾度も経験しました。それは他人様にはまったくどうでもいいことがほとんどでしたが、こうして書いておいたものに偶然にも目に留めていただけたことは、ありがたいと思っています。
    今後、模型いじりもしていきますので、そういうことを書くこともあると思います。更新回数は大変少なくなりますが、よろしくお願いいたします。
    2019年05月01日 22:04
  • 鉄子おばさん

    お疲れ様です。懐かしいお写真、新聞の見出しのUPありがとうございます。時代とともに鉄道車両も変化していきますね。抵抗制御から界磁添加励磁制御を経て今はVVVFインバータ制御が当たり前、パンタグラフも菱形からシングルアーム、台車はボルスタレス等々。鉄子人生の基が381系の私は381系に乗務されていた方のブログと言う事で読ませていただくようになりました。本を書けそうな博識だと感心しながら読ませていただきました。これからも再読をふくめ読ませていただきますし拙いコメントもさせていただきます。定期運用は終了しても臨時運用続くと言う事で楽しみにしております。
    2019年05月03日 10:41
  • しなの7号

    鉄子おばさん様 ありがとうございます。
    列車の姿かたちが時とともに変化していくだけでなく、そういった新技術によって走行音や乗り心地も国鉄時代とは変わってきました。代替わりが進むにつれて鉄道の味わいが変わっていきますが、国鉄の歴史が刻まれたものが残っているうちは、なにか書くこともあろうかと思いますので、よろしくお願いいたします。
    2019年05月03日 14:05

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