1990年8月27日 車内補充券この日は出張で名古屋から奈良へ行きました。当時は関西本線に急行「かすが」が1往復残されていましたので、往復とも「かすが」を利用しました。2人掛けシートに改装されたJR東海のキハ65とキハ58の2両編成でした。
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1992年8月27日この日は家族で碧南までクルマで遊びに行きました。市内に明石公園という遊園地があって、そこの園内遊覧鉄道にはC58?が走っていました。
その日、名鉄三河線の気動車列車の写真も撮っていました。
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2012年8月27日この日、仕事帰りの中央西線春日井駅に、EF65+シキ1000×3両の編成が留置されていました。青プレ2121は、国鉄時代に乗務で縁があった1121を改番した機関車でしたので、このときも感慨深い地元での再会でした。
この出会いの後に同機を見る機会がずっとないまま、2016年の4月に愛知機関区の解体線に入っているとの情報を聞いて、すでにナンバーが外された解体寸前の状態を看取り、それが今生の別れとなりました。
この記事へのコメント
明石市民
碧南に明石公園があるとは驚きました!
JR明石駅前の明石城を囲む明石公園は大きなイベントがよく開かれるところで球場もありますが、ご存じでしょうか。
いつか碧南のC58に会いに行きましょう。
NAO
車内補充券の経由欄ですが、八田とか関西のような記載になるかと思いましたが、名古屋なのですね。
急行「かすが」は小学校4年のとき、両親とともに柘植-奈良間に乗せてもらいました。急行「くまの」で柘植まで行った帰りのことで、柘植では駅前の通りを歩いてもほとんど人を見かけず、向こうの方の名阪国道を行き来する車やトラックを見ると、当時我が家には自家用車がなかったので、異次元のような光景でした。
やってきた「かすが」はたった2両編成で座れす、最後尾デッキで過ごすのかと思いきや、次の伊賀上野ではかなりの降車があり、そこからは難なく座れたのもよく覚えています。また、快走しながら分岐駅の木津を通過したのも新鮮でした。
奈良に着くと、父は大きな声で「途中下車させて下さい!」
改札氏、「どうぞ、どうぞ!」
木津-奈良間の飛び出し区間の精算も求められず、父が堂々と見せる、確か補充片道乗車券を確認された改札氏とのやりとりも、古き良き?時代だったのでしょうか。
帰路は前途を放棄して近鉄の急行で京都まで戻ったのですが、これが実家時代に家族揃っての国鉄(→JR)の急行(以上の)券を伴う唯一の旅行でした。
しなの7号
明石市の明石公園に行ったことはありません。列車から眺めるのみです。明石駅と福山駅の印象が重なってしまいます。
碧南市のほうの明石公園オフィシャルサイトによれば、現在、園内の遊覧鉄道で走っているのがアメリカ古典機風の機関車になっていますので、ナンチャッテC58はもういないのだと思われます。
ttp://akashi-park.jp/index.html
28年も前のことなので無理もありませんが、今でも遊覧鉄道が残っていることは評価すべきですね。
しなの7号
車内補充券の経由表記は、たしかにツッコミを入れたくなりますね。
4日前に「【1244】あの年の8月23日《1972年・1973年・1990年・2003年》」の中で1973年8月23日に新堂~柘植間で撮影したD51の画像をアップしていますが、その日は、名古屋から急行「かすが1号・平安」に乗って柘植に来ています。NAO様が乗られたのもその年か、そうでなくとも、その前後の年だったのではないかと思います。「くまの」からの乗継ですと柘植から乗られたのは午後の「かすが2号」のほうだと思いますが、ほぼ同じような時期に、同じ柘植駅で「かすが」のお世話になっていたことになります。
やくも3号
券面が鶴舞▶舞鶴だったらちょっと面白そうで、
そこで、前後逆の駅名で現在のJRの切符が作れるか調べてみたところ、
瀬田駅▶田瀬駅(北恵那鉄道×)
上松駅▶松上駅(朝鮮民主主義人民共和国鉄道庁×)
田立駅▶立田駅(土佐くろしお鉄道×)
山崎駅▶崎山駅(平成筑豊鉄道×)
守山駅▶山守駅(旧国鉄倉吉線×)
幸田駅▶田幸駅(福塩線塩町駅の旧称×)
はすべてだめで、けっきょく
田町駅▶町田駅(横浜線〇)と
上道駅▶道上駅(福塩線〇)
くらいしか思いつきません。。
しなの7号
愛知県内には尾西市と西尾市が存在し、名鉄にも尾西線と西尾線とがあります。どっちがどっちだか、岐阜県に住んでいたころにはすぐにわかりませんでした。西尾駅は存在しますが、幸いにも?尾西市には尾西駅というのはありませんので国鉄在職中に困ったことはありませんが、名古屋駅で「尾西(市)に行くにはどの電車に乗ればいいですか?」と聞かれれば、両者はまったく逆方向になるので間違えたら支障がでます。
ヒデヨシ
明石公園のC58時代に乗りました
車輌は極めて真面目な作りだった印象で
線路も本物の鉄道と同じような本格的に作られていました
ちゃんとしたナローゲージの規格なのかな?
蒸気機関車ですが実態はバッテリーロコ?
代替わりしていたとは知りませんでした
近くには水族館館もあったでしょうか
しなの7号
このC58の動力やゲージなど詳細は存じません。この日は子供たちを乗せて自分は乗っていないような記憶です。今回の記事ではアップしていませんが、このとき買った乗り物券の回数券表紙を保存しており、その表紙にもこのC58の写真が載っています。それを見ると全体に主要パーツが再現され、ロッド類の表現や軸配置もホンモノにかなり忠実であるように見えますので、パーツ類の縮尺がもっときちんと再現されていれば、もっとリアルになったものと思います。煙室戸ハンドルは碧南市章の形になっていたことに、たった今、気が付きました。
唐獅子
2006年3月に急行かすがが廃止になること受けて、名古屋からの下りで奈良へ行きました。近鉄京都線の始発の急行(その当時の自宅の最寄り駅の新大宮駅午前5時10分台発だったと思います)に乗って京都駅まで行き、新快速が走っていない時間に221系の快速電車で米原まで行きました。ギリギリの時間で117系で名古屋にたどり着き、かすがに乗って奈良へ帰りました。
しなの7号
キハ75になってからの「かすが」には乗ったことがありません。国鉄時代にはSLの撮影のために柘植まで乗ったこともありました。また、武豊線で、「かすが」の前運用となる普通列車1往復に乗務していたことがあります。
【543】キハ58系の暖房調節~武豊線920D~925D
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201412article_7.html
名古屋を朝下っていく「かすが」(当時は「かすが1号」)は、国鉄時代「平安」と「紀州1号」を併結して奈良・京都・紀伊勝浦行だった時期があり、それが亀山電化の1982年5月17日ダイヤ改正からでした。 (それまで「紀州1号」は分離運転でした。)
◆ついでに復習してみました。
その後1985年3月14日のダイヤ改正で、「紀州1号」が特急「南紀1号」に格上げされ再び分離運転となると同時に「平安」は廃止。その代わりに、「かすが」は亀山柘植間で、伊勢市発京都行「志摩1号」を併結するようになりました。それも短期間のことで、国鉄分割民営化直前の1986年11月1日に「志摩1号」が廃止され、単独運転になったという経過でした。
どうでもいいことで失礼しました。