長々とこのシリーズを続けてしまいましたが、今回で最終回となります。
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私が乗務した列車を牽いてくれたDD51は、ほとんどが稲沢第一機関区(のちに稲沢機関区)の所属で、一部の列車では亀山機関区の所属でした。いちばん多くDD51のお世話になったのは貨物列車の列車掛時代(1980年を中心とした約1年半)であったことは、以前にもこのシリーズ記事の中で書きましたが、その当時の稲沢第一機関区に配属されていたDD51について、1980年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表で確認しておきましょう。
《稲沢第一機関区配置DD51=27両》
661 662 712 713 714 717 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 889 890 891 892 893 896
自分の乗務記録と照合すると、貨物列車乗務時代に27両すべてに乗務列車を牽いてもらっています。
それから5年後の1985年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表ではどう変化しているでしょう。
《稲沢機関区配置DD51=33両》
555 556 557 558 587 588 589 590 591 592 712 713 714 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 889 890 891 892 893 896
稲沢第一・第二機関区が統合され、稲沢機関区に変わっています。配置両数が増えて33両になっているのは、美濃太田機関区からA寒地仕様車(~592)が転入したことによります。高山本線用のDLが稲沢へ配置換えになった結果だと思われ、美濃太田機関区のDL配置がいったんなくなっています。(JR東海で後に美濃太田運輸区(当時)への配置が復活)
1980年の車両配置表と照合すると、661・662・717・826がいないことに気付きます。調べていくと661(秋田)・662(秋田)・826(佐倉)は転属ですが、717は寝台特急「紀伊」機関車衝突事故で廃車されたものです。
その翌々年1987年3月31日(国鉄最後の日)の配置表。これがJRに直接引き継がれる陣容ということになります。
《稲沢機関区配置DD51=23両→JR貨物へ》
712 713 714 746 750 751 789 790 816 817 818 819 820 822 823 825 889 890 891 892 893 896 1039
《名古屋南運転区配置DD51=4両→JR東海へ》
749 791 821 1037
1985年からわずか2年後ですが、この間に美濃太田機関区から転入した古い592までのA寒地仕様車10両と824が配置表から姿を消しており、その時点までに廃車、または国鉄清算事業団に引き継がれたのではないかと思われます。結果として美濃太田機関区から転入したA寒地仕様車10両のうち、乗務で縁があったのは592号機1両だけでした。
代替として鷲別からA寒地仕様車3両(789・790・791)と亀山から一般仕様車1037・1039が稲沢へ転入しています。そして国鉄分割民営化に伴ってJR東海へ引き継がれる4両は名古屋南運転区に分割配置になっています。前述の佐倉に行った826、秋田へ行った661・662は、この時点で配置表を繰っても見当たりませんので、JRには引き継がれなかったのでしょう。亀山から来た2両は、稲沢転入前に乗務列車を牽いてもらったことがある機関車でしたが、鷲別から来た3両とは乗務での縁はありませんでした。
製造両数649両、1980年時点では635両残っていたDD51。そのうち国鉄分割民営化時にJR各社に継承されたのは259両(後に清算事業団から4両が車籍復活)というのは、実に約6割のDD51が国鉄車籍のまま新会社に移行されることなく廃車されたことを意味しています。DD51の多くは鉄道事業が縮小される中、自らの後継車を必要とすることなく失業していった事例が多かったと考えられ、後継車があって引退したSLの最期より哀れでした。
私と最も関係が深かった1980年当時に稲沢第一機関区に在籍したDD51のうち、JRに継承された機関車はJR東海に行った749・821を除きJR貨物に移行しました。JR東海に在籍した4両のDD51のうち、この2両は最期まで国鉄色を保ち、他所から来た2両(791・1037)は、のちにユーロ塗装になりました。
1996年2月26日 尾張一宮 JR東海に継承されマヤ検に従事するDD51 749
JR貨物機と違って足回りがグレー塗装になり、イメージが変わりました。
JR東海所有の機関車はすべて廃車されてしまい、現存しません。
稲沢機関区に残りJR貨物に移管されたDD51は、地味な仕業が多かった印象を持ちます。最後のDD51定期運行路線になるまでは話題に上ったことは少なかったような気がしていますが、紀勢本線の重連は有名でした。
1992年2月22日 紀勢本線 紀伊長島~三野瀬(再掲画像)
そのほかには、名古屋貨物ターミナル~稲沢間にDD51回送車を含む三重連貨物列車がありました。
1996年10月 東海道本線(稲沢線)枇杷島~清州
三重連はほぼ毎日あったそうで、3回ほど撮影に出かけたことがありますが、3回とも撮影できました。画像がありませんが四重単もありました。この時点で国鉄分割民営化後10年が経とうとしていましたので、旧稲沢機関区から車両を引き受けた愛知機関区のDD51の一部に転入転出があったようです。
《1996年4月1日現在の番号順配置表から拾い出した愛知機関区のDD51配置車》
愛知機関区配置DD51=29両
712 713 714 746 750 751 758 789 816 817 818 819 820 822 823 825 832 857 875 889 890 891 892 893 896 899 1028 1039 1805
国鉄から移行する時点の稲沢機関区では配置数23両でしたが6両増えています。その23両中22両はこの時点でも健在で、790が見当たらないので廃車されたものと思います。そして758(東新潟)、832(吹田)、857(厚狭)、875(国鉄清算事業団から復籍)、899(佐倉)、1028(門司)、1805(佐倉)の計7両が転入車です。
《2004年4月現在の愛知機関区のDD51配置車》
愛知機関区配置DD51=23両
*750 797 820 *822 *823 *825 832 847 856 857 875 *889 *890 *891 *892 *893 *896 899 1028 1029 1801 1803 1804
1996年4月1日の配置表と比較すると配置数は6両減ではありますが、メンバーはかなり入れ替わっており、稲沢第一機関区生え抜きの面々(*印)がかなり姿を消し、半数を切っています。廃車又は他区への転属車は13両(712 713 714 746 751 758 789 816 817 818 819 1039 1805)で、代わりに7両(797 847 856 1029 1801 1803 1804)が転入しています。このうち797はJR東日本(磐越東線営業所)から購入した転籍車とのことですが、そういうことはまったく知らなかっただけでなく、見た記憶もありません。それもそのはずで、Wikipediaによると、このあと生え抜き機823号機と797号機は、廃車された後にミャンマー国鉄に譲渡されたことがわかりました。823号機の方はよく知っている機関車でした。
そのDD51 823です。清州駅で撮影しています。正確な撮影日はわかりませんが、国鉄分割民営化直後1987年12月の撮影だと思います。
この機関車がミャンマーに渡って今年で十数年が経過しています。昨今のミャンマー情勢のこともありますし、今はどうなっているのでしょうか。。。
この823号機にも幾度か乗務した列車を牽いてもらったことがありました。その列車の編成を1つ掲げておきます。
<1980年11月9日 西名古屋港線~稲沢線563列車>
運転区間・乗務区間共 西名古屋港15:11~稲沢16:42
DD51 823(稲一)
DE11 1015(稲一)回送
ワ フ 35538 (門モシ)
ハワム584261 清州→倉賀野
ハワム584228 清州→倉賀野
ハワム281468 清州→入江
ハワム584355 清州→入江
ハワム584271 清州→新宿
ハワム585293 清州→東小金井
ハワム585204 清州→汐留
ハワム 85655 清州→碧南市
ハワム180276 清州→碧南市
ハワム286243 清州→碧南市
ハワム 88368 清州→碧南市
ハワム 88763 清州→碧南市
ハワム 86747 清州→碧南市
ワ フ 29741 (金トソ・清州連結)
ヨ 14167 (名イナ・清州連結)
コタキ111961 清州→敦賀港
コタキ 19096 清州→敦賀港
コタキ112136 清州→敦賀港
コタキ 71927 清州→敦賀港
コタキ112301 清州→敦賀港
コタキ 91986 清州→彦根
コタキ 91992 清州→彦根
ヨ 13733 (南ツソ)
現車2 延長換算2.0 換算2.2(西名古屋港)
現車24 延長換算30.1 換算35.8(清州)
清州連結車に東海道上り下り両方面行きの貨車が混在しているのが不自然に思われるかもしれませんが、上り方面行きの貨車はこの列車でいったん稲沢に逆送してから上りの指定列車に連結されました。この列車は西名古屋港始発の貨物列車ですが、この日は日曜日のために西名古屋港からの発送はなく2両のDLと2両の緩急車だけで出発していましたので、それ以外は中間に連結された2両の緩急車も含め、すべて清州で連結されています。
西名古屋港線はちょっと変わった取り扱いなどもある路線でした。そういうところでDD51 823とともに1日を過ごしたのかと思うと、感慨深いです。西名古屋港線の乗務については
【339】思い出の乗務列車14: 西名古屋港線564列車
【340】思い出の乗務列車15: 西名古屋港線563列車
で書いています。
*このほか、2004年4月までに愛知機関区で廃車又は転属したDD51のうち、712 816 817 818の4両(817・818は吹田区転属後)がベトナムに輸出されたという情報がありますが、確認できずにいます。
下の画像は厚狭から転入した857号機です。
1996年7月27日 東海道本線(稲沢線)枇杷島~清州
2002年あたりから更新塗装車が出現し漸増していくことになります。更新塗装車が増殖を始めたころに、私はフィルム式一眼レフを手放し、撮り鉄活動をやめてコンデジ1台だけの身軽な趣味活動にしました。この857号機も、2010年に見たときにはまったく印象が変わっていました。
2010年3月2日 関西本線 八田~春田
この857号機は、このあと平成30年7月豪雨で山陽本線が不通になっている間に山陰~山口線経由で臨時運転された迂回貨物列車牽引用として愛知機関区から派遣されたDD51の中の1両でした。前述のように857号機は厚狭からの転入機でしたので、思いがけない里帰りとなりました。長い年月の間に考えもしないことが起こるものです。任務終了後は愛知機関区に戻り、同区のDD51運行最後の日まで稼働しました。
2010年3月5日 関西本線 春田~八田 DD51 899
この時点では、もう稲沢生え抜きのDD51はすべてA更新色になっていて、国鉄色のDD51は他所からの転属車ばかりになっていました。この899号機は佐倉から国鉄分割民営化翌年に稲沢に転入した機関車でしたが、数年前に廃車解体されています。ですから自分とは仕事上での接点がない機関車ですが、稲沢~愛知時代が長い機関車ではありました。個人的にはやっぱりこの色だと思いますが、愛知機関区では国鉄色のDD51が最後の日まで残ることはできませんでした。そして最後まで稼働していたDD51は、会社の通勤途中と昼休みの撮影以外にDD51を観察することがほとんどなくなってしまっていた私にとって、すべて馴染みの薄い機関車たちになっていました。
愛知機関区のDD51は定期旅客列車を牽いていたわけでもなかったのに、地元のテレビや新聞でも定期運行廃止のニュースは案外大きく報じられました。最終運転日の前日が東日本大震災から10年目の日にあたっており、テレビ局によっては、DD51は震災後の迂回運転による燃料輸送や前述の平成30年7月豪雨の迂回運転といった、大災害時の復旧復興に使用されたことも報じていました。
新型コロナまん延が続いていたことだけでなく、もとより密になるところへは寄り付きたくない私は、最後の日まで沿線に出かけることはありませんでした。そのかわり、定期運用が廃止されてから2か月経った先月中旬に自動車で稲沢を訪ねました。
DD51数両とDE10・EF64といった国鉄形車両たちが固めて留置されていました。手前の線路をJR世代のDD200が通り過ぎてゆき、背後に1年半通勤した車掌区があったJR貨物のビル。その隣には膜構造建築のJR東海の稲沢駅舎。車両と建物双方に時代の移り変わりを感じずにはいられない風景でした。
ここに留置されたDD51たちが自力で動くことはもうないのでしょう。来るべき時がついに来たとの思いはありましたが、このシリーズの冒頭に書いたように、車齢から考えても、よくぞここまで生き延びてくれたと思うばかりです。この世ではどんなことでも例外なく終焉があることは致し方ありませんが、ここまで多大な貢献をしてきたDD51に対し、感謝と労いの気持ちを伝えたいものです。
OLDIES BUT GOODIES
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このシリーズは2~3回の連載でと思っていましたが、つい長くなってしまいました。お時間を取らせてしまい申し訳ございませんでした。ご覧いただいた方には御礼申し上げます。
◆今回の記事で参考にした図書
鉄道図書刊行会刊 国鉄車両配置表1980年版
交友社刊 ‘85国鉄車両配置表
交友社刊 鉄道ファン 1983年3月号
交友社刊 鉄道ファン 1987年6月号特別付録 国鉄最後の車両配置表
企画室ネコ刊(現ネコ・パブリッシング)レイル・マガジン 1992年4月号
ネコ・パブリッシング刊 レイル・マガジン 1993年8月号
ネコ・パブリッシング刊 1996JR全車輌ハンドブック
JTBパブリッシング刊 石井幸孝著 DD51物語
この記事へのコメント
おき2号
8回にもわたるDD51のお話、楽しませていただきました。ありがとうございました。
愛知のDD51は入れ替わりながらも長く走り続けたところがすごいですね。単機や重連と、路線や編成に応じて柔軟に使えるところも良かったのでしょうか。
857号機もありがとうございました。愛知から3両が山陰線迂回のために来てくれたのをつい最近のように感じますが、もう3年も昔なのですね。
いつの間にかJR西日本がDD51の運用両数で最大の会社になってしまいました。もうしばらくは走り続けてくれるようなので、しなの7号様が西日本を訪れた時には出会えたらいいなと願っています。
しなの7号
年寄りならではの感想になりますが、SL末期のときに、地元中津川機関区では全検切れのSLの補充は、電化やDL化で余剰となった全国各地の機関区から転属してきたSLで賄われ、最後に中津川に残ったSLは他所からきたなじみの薄い機関車が幅を利かすようになっていました。それは愛知区のDD51の末期と重なって見えました。全国規模でこうした転属が行われていることは、DD51が広範囲で使用された機関車であり、全国ネットのJR貨物ならではのことでしょうし、災害時の迂回運転にも同じことが言えると思います。
JR西日本には、自分が乗務した列車に連結されていた車両が、DD51 1043・キハ40 2029・キハ40 2134・サロンカーなにわ、というように複数残っているのが不思議なくらいです。JR東海では211系0番台2編成だけです。