2014年から2019年まで5年間にわたって「スチール棚の企画展」と題したシリーズ記事を不定期的に十数回連載してきましたが、それから2年ほど経過した現在のスチール棚の様子について書いておきます。
実車の世界では、今年に入ってからJR貨物愛知機関区のDD51が引退しましたので、今年5月からスチール棚のひな壇には国鉄型のディーゼル機関車が牽く列車を、例によって管理人の思い入れと怪しいアレンジが混ざり合った状態で並べ、国鉄時代を偲んでいます。余ったスペースには短編成のディーゼルカーを配置しました。
◆下段の下段の小レイアウトには今回特に手を入れていないので記述を省略します。
主役であるディーゼル機関車は10両5形式で、これが現在の我が家にある国鉄型ディーゼル機関車のすべてです。所有車両のスリム化をはかった結果、以前にブログ上に登場したことがあるDD54とかJRでユーロ色に変更されたDD51 791などは手放しました。
上段から下へ順に
1 DD51 842お召機+お召列車1号編成5両
1右方(画面奥) キロハ25+キハ55+キハ55
2 DE10+コキ50000系6両
2右方(画面奥) キハ17+キハ16
3 DD51+旧型客車7両
3右方(画面奥) キハ35+キハ36
4 DD51 592ユーロ色+ユーロライナー7両
4右方(画面奥) キハ48 1500+キハ48 500
5 DF50+旧形客車8両(寝台車2両含む)
5右方(画面奥) キハ23
6 DD51+旧形客車7両+キハ55+キハ20
7 DD13+荷物列車10両
8 DD51+貨物列車17両
9 DE10+50系客車3両
9中央 キハ01
9右方(画面奥) キハ91系5両
10 DD16+マヤ34+ワム80000+ワフ29500
10中央 キハ02
10右方(画面奥) キハ65+キハ58 1100+キロ28 2300+キハ58 400
ディーゼル機関車に牽かれる客貨車群についても、機関車の脇役にとどまることなく自己主張を持たせた編成としたつもりですので、以下、編成内容をもう少し詳しく書いていきますが、ディーゼルカーについては、【991】スチール棚の企画展16: 気動車での展示内容の一部を並べただけなので、今回はこれ以上触れません。
「1 DD51842お召機+お召列車1号編成5両」は言うまでもなく、国鉄時代には国民体育大会や全国植樹祭など公式行事のときに運転された由緒正しいお召列車です。
「2 DE10+コキ50000系6両」は、DE10と高速貨車コキ50000系の不釣り合いとも思える組み合わせですが、私が列車掛時代に関西本線で四日市~稲沢間で乗務していた53.10改正時の3090列車をモデルとして、それを短縮した編成です。四日市駅で一日入換作業に従事した稲沢第一区のDE10 又はDE11(共通運用)が帰区を兼ねて高速貨車を牽く列車でした。実際には私有コンテナが多く混入していましたので、緑色のコンテナが連続する整った編成美はありませんでした。また、この列車にはDE11が運用されることが多かったようで、この列車でDE10 の牽引列車に巡り合えた記憶がありません。【189】乗務した車両:コキフ50000に、実際の編成を書いております。
「3 DD51+旧型客車7両」は、57.5ダイヤ改正で関西本線名古屋・亀山間が電化される直前に私が車掌時代に乗務していた222列車をモデルにしています。前寄り2両が亀山客貨車区(天カメ)、後寄り5両が名古屋客貨車区(名ナコ)の客車でした。冬場には寒い列車でいい思い出はありませんが、【66】乗務した車両:旧型客車(3)で、実際の編成などを書いています。
「4 DD51 592ユーロ色+ユーロライナー7両」は、専務車掌時代に臨時急行ユーロライナーのりくら」や団体臨時列車で乗務した列車でした。
【297】乗務した車両:ユーロライナー(1)そのデビューと概要
【386】思い出の乗務列車24:臨時急行「ユーロライナーのりくら」(前篇)
ほかで、その特徴や乗務したときのことなどを書いています。
「5 DF50+旧形客車8両(寝台車2両含む)」は、私が国鉄に就職して間もないころ、53.10ダイヤ改正まで乗務掛(荷扱作業員)時代に乗務していた紀勢本線924列車をモデルにしています。天王寺~名古屋間を紀勢本線経由で結ぶ長距離普通列車で、DF50の次位オハフだけは和歌山市始発で、この列車に和歌山で増結され亀山止まりの車両でした。荷扱作業員でしたので私の乗務位置はその和歌山市始発のオハフの直後スユニでした。編成中の寝台車2両は新宮で切り離されましたので、私が乗務していた新宮~名古屋間では連結されていませんでした。そういう事情から、実際にこの列車に連結されている寝台車を見る機会はありませんでした。
【374】思い出の乗務列車21:紀勢本線924列車(前篇)
【376】思い出の乗務列車22:紀勢本線924列車(中篇)
【378】思い出の乗務列車23:紀勢本線924列車(後篇)
で、この列車のことを書いております。
「6 DD51+旧形客車7両+キハ55+キハ20」は、中央西線中津川~塩尻間電化完成による48.7ダイヤ改正の前にあった名古屋~長野間を直通していた旧形客車による普通列車829列車をモデルにしています。中津川から回送の気動車2両が最後部に付く変わった列車でした。この気動車がどこまで連結されていたか特定できずにおりましたところ、47.10時点の運用表で木曽福島で切り離されたことが確認できたと以前の記事のコメント欄からLewane様からご教示いただきました。
「7 DD13+荷物列車10両」は私が車掌時代に乗務していた熱田・名古屋間の1区間(現在は金山・尾頭橋の2駅がある。)だけ乗務していた荷2047列車(57.5ダイヤ改正関西本線亀山電化直前あたりの編成)をモデルにしています。【227】乗務した車両:マニ50、スユニ50に実際の編成などを書いています。
「8 DD51+貨物列車17両」は、国鉄時代どこにでもあった各駅で入換を繰り返していく鈍足な解結貨物列車の再現です。私がこの手の貨物列車に乗務していた55.10ダイヤ改正前後の関西本線上り亀山発稲沢行の四日市発車時点の編成に近いイメージで編成を作りました。当時、本線で運転されていた解結貨物列車は、途中駅で貨車を解結していくうちに編成内容が変化してゆき、始発駅発車時と終着駅到着時ではまったく別の列車のように編成内容が変わってしまうのが特徴でもありました。
最前のヨは途中駅入換のため列車掛が乗務しています。この展示内容の想定では2両目ワムは弥富解放で名鉄尾西線中継車、3・4両目ワラとストラは桑名開放で近鉄養老線中継車、5両目から16両目までは途中駅で連結され終点の稲沢まで通す貨車、そのうち5両目(オホキ)は加佐登連結、6~11両目(ワキ・ハワム・アタム・アタム・オタキ・ハワム)までは南四日市連結、12~16両目(ヨ・オタキ・タキ・タキ・タキ)は四日市連結車という陣容で、つまり、この列車の運転区間(亀山操~稲沢間)の全運転区間を通す車両は最前部と最後部のヨ2両だけということになるのです。
9 DE10+50系客車3両
50系客車は私の乗務範囲には運用されておらず、なじみが薄い車両でしたが、国鉄を退職してから全国各地の旧国鉄線に乗りに行っていたころ、東北本線・磐越西線・山陰本線・播但線で乗車したことがあります。しかし、いずれもDE10の牽引ではありません。50系客車は乗務する側からすれば旧形客車より格段に作業性は良さそうですし、赤い車体は交流電気機関車だけでなくディーゼル機関車にも似合っていると思います。
DE10とは、乗務では貨物列車の列車掛時代に中央西線や東海道本線で乗務列車の牽引でお世話になっていますが、前述の関西本線3090列車のように、いずれも稲沢第一区のDE10 又はDE11の共通運用(一部列車はDD13とも共通運用)の列車でしたので、配置数の割合の関係?だったのか意外とDE10に当たることは少なかったです。
10 DD16+マヤ34+ワム80000+ワフ29500
DD16は仕事上の接点がありません。けれど、実家に近い明知線で貨物列車を牽いていたので幾度も撮影に行きました。私の好きなローカル線用の蒸機C12・C56の後継機という位置づけでしたので、好きなディーゼル機です。ここでは軌道検測車マヤ34を連結した明知線貨物列車を再現しています。
DD13・DD51・DE10・DD16
国鉄で量産された純国産ディーゼル機関車たちです。どこでも見ることができたこの色、この形状ですが、今や貴重品となり懐かしく思うようになりました。その全盛期を再現したスチール棚の模型たちは、若き日の自分の仕事と暮らし、撮影や旅に出た日々を思い出させてくれます。
この記事へのコメント
おき2号
いろいろな編成があって面白いですね。いろいろな編成にできて、どこでも走れるのがディーゼル機関車の良いところですね。今は同じような貨物だけでさみしいものです。
ふと疑問なのですが、しなの7号様の乗務された中で重連での牽引の列車はあったのでしょうか。そうなると単機と取り扱いが変わる部分というのはあるのでしょうか。
もしよろしければ教えていただきたいです。
しなの7号
国鉄のディーゼル機関車は、どんな車両を牽かせても違和感がない…と言ったら間違いかもしれませんが、違和感ありありの編成が臨客・臨貨はもちろん、定期列車でも多数実在したという点では、模型の世界でそれを再現する面白さもあるのではないでしょうか。今の鉄道は編成単位で管理されているので、整ってきれいな編成ですが、イレギュラーな編成に萌え萌えという変な年寄りには魅力が半減です。
国鉄時代、関西本線では亀山操以西の貨物列車に加太越の重連運用があったようですが、貨物列車乗務員時代の乗務範囲は、亀山操以東でした。(次位回送はありました。)
中央西線ではEF64重連総括が国鉄時代から存在し、そういう列車にも乗務しました。取扱の違いというものは思い当たりませんが、重連総括でなく補機にも機関士が乗務する列車では、本務機の機関士へ文書通知するべき事柄であっても補機の機関士には口頭で行うとかの規定はありました。
木田 英夫
まるでどこかの大きな駅、あるいは操車場のような感じですね。圧倒されそうな迫力です。
5番線の普通はやたま号、紀勢線回り、天王寺行きですが、40年程前、学生時代に開田村でのゼミ合宿の帰りに一度、名古屋から天王寺まで乗り通したことがあります。確か寝台車は満員のため取れず、あの4人掛けボックス席での乗り通しでした。あの頃はそれ程でもありませんでしたが、今この模型を見ていますと、「ようやったなあ。」という気持ちにもなります。名古屋で普通に新幹線に乗り換えれば、快適なクロスシートで、明るい内に家に帰れて、ゆっくり休める時間でしたから。
7番線の荷物列車、8番線の貨物列車。機関車は電機(それぞれEF58とEF65orEF60)でしたが、西ノ宮〜芦屋間の夙川の所によく電車を見に行っていたこと、また懐かしく思い出しました。ディーゼル機関車とは関係ないことですみません。
さて、この10編成の揃い踏みを見ていますと「なぜディーゼル機関車は文鎮スタイルなのだろう。」という思いがします。運転席が真ん中にあるよりは、前にある方がずっと見やすいのに……。電機のように箱形ボディーにならなかったのには何か深い訳があるのかも知れませんね。
いつもありがとうございます。今後とも宜しくお願いします。木田英夫
しなの7号
私は残念ながら紀勢本線921・924列車に仕事以外で乗ったことがありません。今ではできない贅沢な夜行列車旅だと思います。開田村はよいところで、実家から日帰り圏内だったので、若いころに幾度も行きました。
ほとんどの客貨車の牽引機はDLに限らずSL/ELでも、時代設定さえ合致すれば似合いますね。東海道・山陽筋ならおっしゃるようなELに牽かせるのがよろしいようで。
DD51が凸型車体が採用された理由ですが、Wikipediaには「この形態を採用した理由は、最大軸重の制限による軽量化要請への優位性、エンジン回りの整備性の良さ、機器配置の容易さなどによるものである。」とありました。二次的な効果として衝突時の乗務員の安全性が向上していると思われます。紀伊号の衝突事故の際、箱形ボディーだったらあの機関士の命はなかったかもしれませんが、あれだけの事故なのに軽傷でした。
おき2号
8月1日にDLやまぐち号に乗ってきました。8月1日は運行開始記念日ということで、DE10の重連運転でした。以前しなの7号様に教えていただいたのと同じように、車掌のすることはDD51単機と変わらないと言われました。
DE10による重連は初めて見ましたが、さすが復刻旧客と国鉄DL、雰囲気が合っていました。この棚にも紛れ込めるのではないでしょうか(笑) 上り列車(帰り)はお客さんも疲れていて静かな人も多く、観光列車の雰囲気が薄れて、昔の急行列車はこんな雰囲気だったのかなと思いました。
車掌さんが上りの最後の交換駅では交換する特急が遅れることなく到着しているのを確認し、「よかった、これで今日は無事に帰れる」と言っていたのが印象的でした。
しなの7号様もここまで無事に来たらほっとする駅などはあったのでしょうか。
やまぐち号の車掌さんは基本二人乗務で、昨年までは放送担当が「専務車掌」、運転担当が「車掌長」の腕章をつけていたのですが、本来の配置は違うよねと会社に提案して、今年から放送担当が「車掌長」の腕章になるようにつけるよう、決まりを入れ替えたそうです。ちなみに放送か運転かは順番に回ってくるようで固定されているわけではないそうです。
しなの7号
重連の列車は魅力的ですから、うちのスチール棚でもいろんな重連列車を再現して展示してみようかと思いました。
長距離列車に乗務したとき帰路の列車でホッとするのは、一般的には乗務終了駅を管轄する鉄道管理局の境界駅に着いたときであったり、いつも乗務しているローカル列車の乗務範囲に入ったとき、最後の停車駅を発車したときなどでしたが、列車によっても違いました。
国鉄時代、車掌長職でも車掌長行路以外(運転担当や改札担当行路など)の乗務では乗客専務腕章を着用されていました。職制が変わった今の担務指定とは必ずしも作業内容が合致しないことかもしれませんが、国鉄時代に車掌長が放送を担当していた事実からすれば、腕章を変更したことは妥当だと思います。
国鉄時代には、乗客専務腕章を着用した専務車掌と車掌長との上下関係を逆だと思っている乗客はあったと思いますし、それとは別に車掌長腕章の「長」が目に入らず、「お前じゃわからん。乗客専務を呼んで来い」という乗客もいたそうな。
木田 英夫
3日付けと4日付けのコメント、ゆっくり読みました。鉄道ではありませんが同じような経験がありますので、コメント致します。
今の警備員の仕事に就く前は、事務屋のサラリーマンとして阪神高速道路公団でデスクワークをしておりましたが、1年間だけ交通管理所に配属され、道路巡回車(いわゆる黄パト)の乗務をしていたことがあります。
定期巡回の時は、巡回が終わって「◯◯線巡回終了、◯◯出口より一般道経由で管理所へ戻ります。」の無線連絡を入れるとき、また事故、故障車、落下物などの事案対応で出動の時は、現場での処理が終わり「処理完了、(全車)現場退去。」の無線連絡を入れて現場を離れたとき等、やはりホッとするものを感じました。
徒然草第109段「高名の木登り」の通り、デスクワークと違う現場の仕事では、最後まで気を抜いたらダメなのは、頭の中では判っているつもりですし、また鉄道と道路を一緒にしてしまうのもムチャなことではありますが…、
今回のコメントを読んで、デスクワークとは違う現場の仕事に就く機械ではない1人の人間として、列車の車掌さんにも、黄パトの乗務員にも、「ここを過ぎれば一つのヤマを越した」という同じ思いをするところもあるのかなと思い、コメント致しました。
いつもありがとうございます。木田英夫
しなの7号
道路巡回車の定期巡回でも列車の乗務員でも同じでしょうけれど、いったん外へ出てしまえば、どんなことに遭遇するかはわからないですし、定められたマニュアルに則って自らの判断で適切に処理しなければなりません。現地ではデスクワークのように同僚先輩に意見を求めたり、上司にお伺いを立てたりできにくい環境に置かれ、矢面に立たされることになりますね。それに国鉄ではまだ列車無線が完備していなかったので、停車場間での出来事には指令室との連絡も取りづらかった点が今とは違っていました。そういうなかで山場を過ぎた時点で張りつめていた気持ちがゆるむタイミングは必ずあるわけで、そういうことは外勤の仕事に共通なことなのかもしれません。
以下、想像の域を出ない話ですが、このやまぐち号の車掌氏は、対向の特急が遅れもなく定時に行違ったことによって、自分の乗務列車が新山口駅に定時に着けそうだと思われたことと同時に、(新幹線の接続待ちで在来線が遅れるケースは多いと思われますから)新幹線と山陽本線のダイヤに乱れもなさそうで乗客の乗継に支障がないことを察して安心感を覚えたのでしょう。(逆に新幹線は遅延した在来線列車からの接続にはなかなか応じない。)
「過ちすな。 心して降りよ。」最後まで気の緩みには心せねばなりませんが、この時点で車掌さんたちが直接すべき作業としては、新山口駅の乗換案内放送とドア扱だけを残していたものと思いました。
おき2号
木田 英夫様
道路巡回のお話を興味深く読ませてもらいました。どんな現場でもいろいろなタイミングで、ほっとする瞬間が来るものなのですね。私はまだそのような経験をしたことはないのですが、いつかわかるようになる日が来るのかなと思いました。
「高名の木登り」の話は初めて知り、調べて読んでみました。徒然草によくある通り、今にも通じる話なのですね。最後まで気を抜かないようにという教えが残るあたり、当時の人もなんだかんだ今と変わらないような人なのでしょうね。ありがとうございました。
しなの7号様
しなの7号様のお考えの通り、山口線で特急はしばしば接続待ちで遅れます。やまぐち号が新山口へ向けて走る時間は新山口駅ー山口駅の列車本数が多く、数分でも遅れると遅れが波及してしまいます。実際のところ、やまぐち号が新山口に到着すると1分もたたずにに対向列車が出発します。(1730着と1730発)
この日は特急と交換後、放送担当車掌さんが最後の放送を、運転担当車掌さんも新山口できっちりとドア扱いを行ってやまぐち号の旅は無事に終わりました。
しなの7号
どんな仕事にも起承転結のような区切りがあるのかもしれないです。
やまぐち号の車掌さんの「よかった、これで今日は無事に帰れる」は、転から結への区切りだったと思います。
「高名の木登り」は学校で何度も読まされました。古典に学ぶところは今でも多いですね。
木田 英夫
6日付けと7日付けのコメント、3日付けと4日付けの分と併せて読みました。約40年程前の山口線での出来事で、もう時効になっていると思いますので、ここにコメントします。
学生時代のゼミ旅行で萩、津和野へ行った帰りの山口線で、途中「特急列車の待ち合わせ」があり、「単線だから特急が行く迄は発車しない。じゃあホームに降りて見よう。」と降りてみると、後ろの方にタブレットをセットしたスタンド(正確な名前は何と言うのでしょうか。)が見えました。タブレットの実物を見たのは初めてでしたので、特急が走りながらタブレットを取って行く迄しっかりと見届けてから、列車に戻ったのですが、……
こちらのコメントを見る迄は、「タブレット見たことあるよ。」と思っていたのですが、今から考えると列車の遅れの原因にもなる顰蹙ものだったわけで、無茶したなあという思いです。1分も経たずに対向列車が出発する・・・。
通勤で利用している東海道本線では駅で何らかの原因で長時間停車の際は「信号待ちのため停車しております。信号が変わり次第発車します。ご利用のお客様はご乗車の上車内でお待ち下さい。」との放送が流れます。単線区間というと長閑かというイメージですが、駅以外の場所ではすれ違い出来ないですから、複線区間以上に定時確保が難しい面もあるのですね。
また一つ勉強になりました。ありがとうございます。木田英夫
しなの7号
通票閉そく式では通票の授受、分岐器と信号の操作は必ず駅員が行い、列車交換には手間暇がかかるということを考慮すれば、当時貴殿の取った行動で列車が遅れたということはなかっただろうと思います。昔と違って通票がない自動閉そく区間では、単線区間の行き違い待ちであっても、写真撮影などでうっかりホームには降りられないですね。今どきの短編成の列車は(その最後部が)分岐器を即座に通過しまい、その直後に分岐器の転換と駅で待っていた列車に対する出発信号機に進行を指示する信号現示されることがあります。さらに国鉄時代にあった長編成の貨物列車に対応した駅ですと、分岐器を過ぎてからホームまでの距離が長いので、対向列車がまだホームに着く前に発車することもありますから、単線区間なら通票閉そく式時代のように対向列車が到着するまで発車しないという常識は通用しなくなりました。
参考書に、通票(タブレット)が入ったキャリアをセットする柱のことは「通票授柱」と書かれていました。また、長谷川宗雄著「動輪の響き」の中には、「授器」と表現してありました。
やくも3号
ご自分の目の当たりにされた車両や実際にお仕事で乗務された編成など、貴兄ご自身の経験に基づくディスプレイになっていて、いつまでもその記憶がキープできることがよいですね。
興味のない方々やご家人から見れば、『なんで一番左の赤くて凸な形の同じのをたくさん買ってるの?』と言われそうなラインアップですが、全然違うんですよね。
そろそろ帰宅して極楽??♨します。
しなの7号
今回の展示は、これまで以上にパーソナルな内容になってしまったようです。趣味の世界では、人それぞれ楽しみ方が異なりますが、自分の場合は、本文の結びで書いたように、模型趣味には、かつての自分に戻る手段みたいな側面があるように思っています。
同じようなオモチャがたくさん並び、それも決してきれいな編成ではない展示内容を、ご覧いただいた皆さんに理解や共感していただくことは無理(キロハ25バス窓もいますし…)なのは当然。自分には同じに見える洋服などを何着も買う家人を理解できないのと同じで、それでも模型を処分せよと言われないだけありがたいです。
木田 英夫
朝からの割り込み、申し訳ありません。
「自分には同じに見える洋服などを何着も買う家人を理解出来ない」とのこと、全く同感であります。同じことを考えているのは私だけではないと知り、ホットしました。
世の全ての男性は同じ思いかも知れません。
そして「模型を処分せよと言われないだけありがたい」、これもその通りです。以前に一度、「箪笥の肥やしを処分したら」と言ったところ、「女性にはその言葉は通用しない」と切り返されました。最悪「本箱と押入れを塞いでいる本と模型を処分しなさい」と言われても仕方のないところ、しなの7号様と同じく言われないで済みました。
本当にありがたいことです。
急なコメントで大変失礼致しました。木田英夫
しなの7号
私は、この10年ほどでかなりモノを減らしました。それでもまだこのようにモノが多い状態なのですが、このあたりが限度だと思っています。家人も私に影響されたのか、それともコロナ禍で在宅時間が増えたこともあったのか、暮らし全般でダウンサイジングを積極的に始め、着なくなった洋服もかなり処分したようです。モノが減ることによって、収納家具も減りました。人が2人居れば物事に対する価値観が異なるのがあたりまえなので、相手の趣味嗜好が理解できないのはやむを得ないとしても、大事なのは互いに干渉しないことであって、幸いにも双方がダウンサイジングという同じ方向性を持って「収蔵品」を管理し減量に向かっている環境下にあることには感謝すべきでしょう。ありがたや、ありがたや。