【1414】 側線との‘ゆかり’ あとがき

 1ヵ月にわたってくだらない作り話にお付き合いいただきありがとうございました。
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この物語を書くことになった動機は、スチール棚に置く小型レイアウトを造ったことがきっかけとなっています。数年前にそのレイアウトが完成したことを書いた記事に、「約束の時刻に遅れて駆け寄る男と待っていた女」を表現した人形をレイアウトの駅前に配置した画像を貼りました。下の画像はその拡大版です。
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そのとき、レイアウト上に配置した人形によって物語が勝手に生まれていくといったことを書きましたところ、読者様から
【男女は駆け落ちです。本当に彼が約束通り来てくれるのか気が気ではありませんでした。男性の息せき切って前のめりにやってくる姿に安堵しつつも、これから二人には都会の荒波にもまれながらの生活が待っています。けして、「ちょっとトイレ行ってくるわ」「もう電車きてるのに!」とか、田舎の劇場にやってきたストリッパーさんと、それを迎えに来た支配人さんの図ではないと思います。】
【男は若手の茄子農家さんで『ごめんごめん!茄子の収穫に手間取ってたもんで、ハアハア』息を切らして女に駆け寄る。『もお~、ワタシと茄子のどっちが大事なのよぉ~』ぷぅーっと頬を膨らませながら答える女。】
というコメントを頂戴しました。そうした想像は人それぞれ違っていて、レイアウトの規模が大きくなればなるほど物語は無限大に湧き出して実際の複雑怪奇な人間模様に近付きます。その酒蔵と製品積み出しのための側線がある駅を中心としたレイアウトを作った元国鉄車掌が、その情景から想像した世界がこの「側線との‘ゆかり’」ということになります。
 
 通信手段が発達した今では、このようなストーリーは通用しにくいのでしょう。今のように携帯電話なりSNSなどがあれば成立しない昔の映画やドラマはいくらでもあるような気がします。昭和の時代には携帯電話がありませんでしたから、通信手段は固定電話か手紙が主流でしたが、手紙だと相手にリアルタイムで意思が伝わりませんでした。家人に聞かれたくない話や知られたくない相手に電話をするときは10円硬貨をたくさん持って駅前の公衆電話まで出かけなくてはなりませんでした。
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電話する先が寮や下宿だと第三者を介して呼び出してもらう必要がありましたし、そうでなくても相手の家族の誰が出るかわからない固定電話では、当時はダイヤルを回して(昔の電話はダイヤル式)から相手が電話に出るまでの緊張感が今よりもありました。列車に乗っている者と地上にいる者との一瞬の出会いも同じで、その列車が過ぎ去ってしまってからLINEなどで簡単に連絡が取りあえる今より、開閉式窓の列車と地上とで手を振りあう一瞬は当事者にとってはずっと貴重で濃い時間だったと思うのです。

 当時の国鉄では、乗務員無線を装備した列車は一部だけで、走行中の列車の乗務員と地上にいる者との間の意思伝達は、形・色・音を表示する手段が今より多く用いられました。信号・標識・合図は、それらを使った業務上の意思伝達方法で、今でも多く使われています。機関車乗務員は、規定された汽笛合図を用いて地上や後部に乗務している補助機関車の乗務員や車掌に対して運転上必要な意思を伝達し、それ以外の、たとえば線路端で手を振る子供たちへ応答する汽笛のように、規則で決められた合図以外の意思伝達手段としても汽笛は、かつては日常的に使われていたものです。SLの乗務員をされていた長谷川宗雄さんは、著書「動輪の響き」のなかで、線路近くの家の乗務員は「今帰ったぞ」と家の近くで汽笛を鳴らすとか、通過駅の信号掛に両手で輪を作って意思を伝えるとかいう事例を挙げておられます。車掌は汽笛が使えませんが、身振り手振りで意思を伝えることは可能ですから、酒蔵のそばで両腕で〇を作って意思確認をする場面を作りました。それに類する話は【399】 父の.合図灯 V.S 友達の懐中電灯で書いています。今では通信手段の面では携帯電話や列車無線の完備で、乗務員が乗務中に外部と連絡を取ることが容易になったわけですが、その代わり勤務時間中に私的な連絡を取り合ったりしていれば、すぐさま通報され処分が待ち受けているような時代となりました。そのようなことは鉄道乗務員の職務専念義務に反することであるのは当然なのですが、昭和の時代は不便ではあっても、心持に余裕があり一瞬の出会いの中でお互いの心を通わすことができた時代でもあったように思います。

 そういうことも含めて、この物語では乗務員の日常生活などの時代背景を表現したつもりです。物語の主人公は、国鉄時代に車掌をやっていた自分に近い年代という設定ですから、国鉄の分割民営化当時の描写を避けて物語を進めるわけにはまいりませんでした。拙ブログ内ではこれまでもいくつかの記事内で国鉄分割民営化の是非や内部の混乱について語っていますので、またその話かとうんざりされたかもしれませんが、当時をご存じの方には国鉄分割民営化前後の記憶を呼び起こしていただきたく、ご存じない年代の方には知っていただきたくて、そのへんのことは本文に取り入れて字数を費やす結果となりました。
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 私は長年にわたって趣味で日本酒のラベル集めをしてきたので、酒蔵さんを訪問したことは何度かあるにはあるのですが、あくまでも一見学者、一消費者、一コレクターの立場でしかなく酒造業界とは何の関係もないため、酒造りについてはまったくの素人であります。加えて味覚音痴の安物買いときているので、本物の酒を語ることなどできるわけもありません。
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昨年この物語をほぼ書き終えた後に、書いた内容が適切かどうか心配になったので、「夏子の酒」全12巻を古書で買って読んでみました。経験とそういうものを参考にして書いただけなので、酒造りの記述に関して誤りがあるかもしれませんがご容赦ください。
 それでも、昔ながらの職人仕事が当たり前だった酒造業の仕事が、昭和から平成に移る前後に大きな転換点を迎えていたのは確かなようで、国鉄もまたローカル線廃止問題とともに国鉄分割民営化に向かっていく大きな変革期にありました。そういった時代背景のなかでの国鉄のローカル線と小規模な酒造店が令和の時代を迎えても現役のまま、スチール棚に設置した小レイアウト上で表現できることを前提に物語を進めました。主人公の国鉄車掌と酒屋の娘は、ともにそれぞれの事情によっていったんはこの側線があるローカル線を去るものの、再び戻ってきて仕事での接点ができました。経営形態を変えながらも存続した鉄道と、そこにかろうじて残されていた側線は、人々を結び、将来の鉄道と街を発展させるための役割を担ったという結末にいたしました。
 
 この主人公は、状況によっては国鉄分割民営化を機会として退職したあと酒蔵の主になれたかもしれないし、そうでなくても酒蔵で再就職をするなど筋書きはいくらでもできたわけで、それぞれの結末は、まったく違ったものにすることは可能でした。この物語の結末が最良の結果だったかどうかについては、書いた私にもわかりませんし、その私自身がこれまでの身の回りの何一つ欠けても今の状況にはなり得なかった無数の縁の不思議さを感じています。今回の創作は自分の見聞と経験を織り交ぜながら、国鉄~JR~第三セクター鉄道と渡り歩いた鉄道乗務員が、側線を介しての縁、すなわち「ゆかり」によって今があるのだという思いを綴りました。生きていくうえで必ずしも良い縁ばかりに恵まれることはありませんが、他人へ恨みや羨みを持って自らを否定的に捉えるのではなく肯定的に捉えて、限りある日々を前向きに過ごしていきたいと考えています。

 ご感想のコメントをくださった皆様、ありがとうございました。
その中にブログの書籍化の予定についてのご質問がありましたが、今のところそのような予定はございません。ブログという形式では、不連続的に掲載したシリーズ記事単位での抽出がしにくく、シリーズ記事が通読しにくくなってしまいました。必要な記事だけを書籍化すれば解決しますがハードルが高すぎます。改善策として、シリーズ記事ごとに分類した「リンク集記事」を作成することで、特定のシリーズ記事を通読していただくのが多少なりとも容易になるかと思います。ブログの引越し準備と並行して、近日中に「リンク集記事」を作成いたしますのでご利用ください。


この記事へのコメント

  • 木田 英夫

    しなの7号様、こんばんは
    小説の内容を思い出しながら、あとがきとこぼれ話をゆっくりと読ませて頂きました。

    昼休みに食事に行った食堂での出会いから始まった物語。こんなこともあり得るよと思っておりますが、それも1つの結末であって、他にもいろいろな結末があり得るとのこと。人との出会い、縁は大切にしなければならないと思います。生きていく上での選択肢をわざわざ狭める必要はないのですから。
    そして、加藤専務や坂下運転士のように、与えられた機会を生かして自ら歩いて行くことも大切なことと改めて思いました。
    しかしながら、「縁を大切に」「与えられた機会を生かして」と言われても、大変難しいことですね。この歳になってつくづく思い知らされます。

    鉄分もアルコール分も高く、教訓も多い小説、ありがとうございました。

    追伸
    1.日本酒のラベルに関係して、昭和45年の頃、小学校高学年の頃ですが、「酒蓋集め」が大流行していました。しなの7号様のお住まいの岐阜県の方ではいかがでしたでしょうか。
    2.通巻1393号、新年あいさつ号に県境の話が出ておりましたが、中央道に難読地名の内津峠があります。以前にバスツアーでそこを通ったときにガイドさんが「内津峠、現を抜かす」と話していたことがあります。うつつを抜かすの「うつつ」と読むのですよと言う読み方の案内だったのか、地名の由来の説明だったのか忘れてしまいましたが、しなの7号様はそんな話をお聞きになったことはありませんでしたでしょうか。

    いつもありがとうございます。木田英夫
    2022年03月30日 19:52
  • しなの7号

    木田 英夫様 こんばんは。
    縁というものは、いつでも無意識で受動的な存在ですね。自分で切り開いたと思う道であっても、そのスタート地点に立つためには無限の縁によって大きく支配された結果なのだと思っています。それを肯定的に受け止めていきたいものだと思うようになりました。

    私は国鉄在職中に日本酒のラベルを集め始め、同時に一升瓶の蓋(栓)も捨てずに集めかけたのですが、かさばって整理しにくいこともあって廃棄してしまいました。
    子供には関係なさそうな酒の蓋が子供の収集対象になっていたとは信じられない思いがします。牛乳瓶の紙蓋は収集対象になっていたと記憶します。
    「内津峠」の読みは、私も小学生の遠足のときのバスガイドさんから聞いて知ったような記憶ですが、その地名の由来について聞いたかどうかは記憶していません。当時の内津峠には中央道はなく国道19号線はヘアピンカーブが複数ある旧道でした。ここで一気に乗り物酔いをしそうで、えらく緊張する区間だったので内津峠にはいい印象がありませんでした。Wikipediaで「内津峠」を検索しましたら
    『日本書紀』によれば、日本武尊が当地で副将軍の建稲種命が水死したという報を聞いて、「あゝ現(うつつ)かな」と嘆き悲しんだことが地名の由来とされている。
    とありました。
    2022年03月31日 20:55
  • おんたけ号

    しなの7号様
    こんにちは。
    この物語を拝読した時、小生も読書(趣味、興味関連書)好き
    ですが、「よくぞこのような話が頭に浮かぶものだなあ」と
    管理人様の発想力と文章力の高さに感銘致しました。

    第9話に出てくる「喫茶スリーナイン」ですが、もしかして
    高蔵寺駅北口からお寺の高蔵寺方向、中央西線を潜るガード
    近くにあったスリーナインですか?
    2024年03月03日 15:49
  • しなの7号

    おんたけ号様 こんばんは。
    ヒマにまかせて作った話で、お恥ずかしい限りですが、ご覧いただきありがとうございました。
    「スリーナイン」の場所、正解です。喫茶店のマッチ箱コレクションのなかからこの喫茶店の名前を拝借した理由は、鉄道に関係しそうな屋号で中央西線沿線の店舗でもあったからでした。「スリーナイン」には、国鉄在職中、高蔵寺で昼頃の折り返す車掌行路で昼食を食べに行ったことがありました。「スリーナイン」があったビルは今でも健在ですが、店はもうないですね。
    2024年03月03日 20:02

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