前回の続きです。国鉄に就職して、荷物列車・貨物列車に乗務していた昭和51~55年ごろに、乗務などで身近だった列車を、いつものように私の部屋のスチール棚にならべています。 中京地区中心で多少怪しく無理のある再現です。今回はこのころに乗務していた中央付近の荷物列車2本と旧客夜行急行列車について、その編成などを語ります。タイトルを「客車篇」としましたが、事実上は自分が乗務に関わった列車を再現した関係で荷物専用列車と荷物車併結客車列車になっています。
《EF61が牽く東海道本線の荷物専用列車(53.10ダイヤ改正直後)》
EF61は蒸気発生装置を装備し、旅客用にも使用できる電機でしたが、EF58に比べればその数は少なく大きくクローズアップされることが少ない機関車だったと思います。この時期の昭和54年初めまでの私は荷扱乗務員として東海道本線他の荷物車に乗務していました。仕事は指定された荷物車内の仕訳作業でしたので、仕事上で直接機関車との接点はありませんでしたが、乗務していた荷物専用列車のうち荷31列車と荷38列車の浜松以西ではEF61が牽引していました。
今回の編成は53.10ダイヤ改正時の荷38列車の、名古屋~浜松間の編成を再現してみました。
「荷38列車」(運転区間:東小倉~汐留)
EF61 広島A1
マ ニ 天荷8 (百済)名古屋~汐留
マニ44 広荷202 広島~汐留
ワ キ 広荷204 下関~汐留
マ ニ 門荷2 東小倉~汐留
ワ キ 門荷201 東小倉~汐留
オユ又はスユ南東郵4 東小倉~汐留
ス ユ 南東郵301東小倉~汐留
オ ユ 門郵3 東小倉~汐留
マ ニ 南東荷5 (大分)門司~汐留
マニ44 南東荷203(大分)門司~汐留
南東郵4はオユ又はスユとなっていて、共通運用となっていたようです。模型では機関車側からマニ60-500+マニ44+ワキ8000+マニ60-500+スニ40+スユ15+スユ44+オユ14+マニ50+マニ44の順としてあります。
(門荷201ワキ8000を類似のスニ40で代用しました。)
当時の手小荷物輸送では、私どものような荷扱作業員を廃止して、無人の締切輸送やパレット輸送への転換が推進されていました。そのため53.10ダイヤ改正ではパレット専用の新形式マニ44が就役しました。そしてダイヤ改正のたびにパレット車の比率は高くなってゆきました。運用番200番台がパレット輸送用の荷物車となっています。
運用番300番台がパレット輸送用郵便車(スユ44)です。このスユ44を護送便用スユ15と扱い便用オユ14が挟んで郵便車が3両連続しています。10両中3両が郵便車という比率からも、東海道・山陽本線での郵便輸送が活発だったことが想像できます。
《EF58が牽く東海道本線の荷物専用列車(53.10ダイヤ改正直前)》
こちらは、定番ともいえるEF58が牽いています。前述のEF61牽引の荷物専用列車同様に私が荷扱乗務員として乗務していたころの荷物専用列車です。こちらは53.10ダイヤ改正前の荷36列車の京都~米原間の編成内容を再現しています。
「荷36列車」(運転区間:東小倉~汐留)
EF58 宮原A14
オ ユ 大郵3 大阪~米原(長岡)
マ ニ 新荷11 下関~米原(長岡)
(マ ニ 臨荷)
マ ニ 南東荷1(松山)岡山~汐留
マ ニ 四荷1 (高知)岡山~汐留
マ ニ 四荷2 (高松)岡山~汐留
オ ユ 四郵1 (高松)岡山~汐留
マ ニ 大荷34B 下関~汐留
ワサフ 門荷201東小倉~汐留
オ ユ 門郵1 東小倉~汐留
マ ニ 大荷34A 京都~汐留
模型では機関車側からオユ10非冷房+マニ60-200+マニ37(臨)+マニ50+マニ60-500+マニ60-500+オユ12+マニ36-0+ワサフ8000+オユ10冷改+マニ36-330前述の53.10以後の荷38列車の編成と比べるとパレット車の比率が低く、この列車のパレット車は門荷201ワサフ1両だけとなっています。この列車の特徴は四国から宇高航路を経由して汐留へ直行する航送運用車があったことでした。愛媛みかんの収穫期にはマニが1両増結されることがあり、増結車は車両のやりくりの都合で、本来は新聞用パレット車である青いマニ37が代わりに運用されることもありましたので、ここでは通常編成に臨時運用に紛れ込んだマニ37を追加した編成を再現しています。
この列車にも郵便車が3両連結されていました。荷38列車の郵便車は東小倉~汐留間の3両が連続して連結されていたのに対し、こちらは3両が離ればなれで運用区間もまったく違っていたのが特徴です。大郵3のオユは米原で切り離されて北陸本線経由長岡行で、未だ非冷房だったオユ10を珍しく思って見ていた記憶があるので、この展示でも非冷房車としました。大郵3のオユとこの先の行動を同じくする新荷11(マニ)には寒地用魚腹台枠のマニ60の200番台(電気暖房2000を加えて2200番台となる)を持ってきました。同時に大郵3や新荷1のように北陸本線など電気暖房を採用した区間に乗り入れる運用は必ず電気暖房併設車が限定運用されていました。
荷物車の乗務では、時速95㎞で東海道本線を突っ走るマニ60の振動が特に大きく、東海道本線の荷物列車に限ってはマニ36やマニ61との性能差がよく出ていました。しかし形式別の特徴を知っている乗務員はそれほどいなかったのじゃないかと思います。というのは、乗務中に「この車はえらい揺するなあ」という会話はあっても、「形式が○○だからしかたない」「台車形式がTR11だからなあ」というような話を先輩から聞いた記憶がないのです。つまり荷扱作業には形式など知っていなくてもどうでもよいということで、しょせんは荷物車であって振動は当たり前ということだったのでしょう。
この時期にはまだマニ44は運用されていませんが、マニ50は新製直後ですでに運用を開始していました。マニ44(上)とマニ50(下)
最初に汐留と隅田川に配置されたので、東海道本線では「南東荷」で運用が始まっていました。新車のマニ50だけはさすがに、どんな乗務員でも形式を意識したはずです。
この編成にはマニ36が2両、マニ60が3両含まれますが、それぞれ違った2種類のタイプの車両を入れました。 ↑ 両方ともマニ36で、0番台のうちスハ32改(上)と300番台のうちスロネ30改(下)
↑ 両方ともマニ60で、魚腹台枠寒冷地仕様200番台(上)と500番台のうちオハニ61改(下)
《EF64が牽く旧客編成急行「きそ」》
中央西線・篠ノ井線の夜行急行「きそ」は57.11ダイヤ改正で12系化されるまで旧形客車で寝台車も連結した列車でした。私はこの列車の荷物車に荷扱乗務員として乗務していました。それだけでなくプライベートでも座席車に乗車したこともありますが、とにかく隙間風がひどく寒い列車というイメージが抜けません。
53.10ダイヤ改正時の下り列車(きそ6号)の篠ノ井線内の編成順序は以下のとおりでした。
「801列車」(運転区間:名古屋~長野)
※普通車は長野から325列車に継承 直江津行
EF64 名~塩 篠ノ井A36・塩~長 篠ノ井A37
(名古屋~塩尻間逆編成)
8 オハフ又はスハフ 名21 名古屋~長野(直江津)
7 オ ハ又はス ハ 名21 名古屋~長野(直江津)
6 オ ハ又はス ハ 名21 名古屋~長野(直江津)
5 オ ハ又はス ハ 名21 名古屋~長野(直江津)
4 オ ハ又はス ハ 名21 名古屋~長野(直江津)
3 オハフ又はスハフ 名21 名古屋~長野(直江津)
2 オハネフ 名附20 名古屋~長 野
1 スハネ 名附20 名古屋~長 野
マ ニ 長荷21 (熱田)名古屋~長野(北長野)
スユニ 長郵21 (熱田)名古屋~長野(北長野)
模型ではEF64-0番台の後ろから順にオハフ46(ア)+オハ46(編/ア)+オハ46(編/木)+オハ46(ア)+ナハ10-900+オハフ45(木)+スハネ16+オハネフ12+マニ36-0+スユニ61
※(ア)はアルミサッシ窓、(木)は木枠窓、(編)はオハ46のうちスハ43からの編入車の略です。模型はセット物(43系夜行急行「きそ」基本セット+増結セット)そのものですが、1両ずつに個性が見られますし、特に普通車の向きや位置は展示時の自由度が高いので、製品説明書にある編成どおりにはしていません。模型では2両の寝台車の位置が53.10時点の資料と逆になっていますが、時期による違いがあったのかもしれません。また、軽量客車ナハフやナハが編成に組み込まれることは普通にありました。模型には名古屋名物?ナハ10試作車が入っています。マニ36-0は荷36と同じくスハ32改です。と、いうことで当時乗務していたのは、マニ(50.3ダイヤ改正)とスユニ(53.10ダイヤ改正)でしかなく、旅客車両に仕事での接点はありません。しかし、当時の名古屋客貨車区所属の旧型座席車は関西本線の普通列車にも運用されていて、のちに車掌として普通列車に乗務するようになってからは、仕事のなかの一部として毎回組成された車両の形式番号を書き写して換算両数を計算したり、暖房の調節などもするようになりました。この製品に印刷された車番を見ていくと、実際に関西本線で乗務した普通列車に連結されていたものも含まれていて、個人的には手放せないセットです。
この記事へのコメント
鉄道郵便車保存会会長
久しぶりのコメントで失礼します。
このたびご紹介の荷36列車、荷38列車のいずれも、郵便車が3両含まれていることが嬉しく、また印象的です。おっしゃるように、郵便輸送が活発であったころを彷彿とさせる編成ですね。
荷38列車のように扱い便+パレット締切便+護送便は全国の郵便車連結列車の中でも最強のもので、4トン郵便トラック満載で10台ぶんの郵袋を積めました。(トラックは満載すると途中局の出し入れが困難なため平均7割程度の積載率ですから郵便車3両で実質トラック15台ぶんでしょうか) 当時の高速道路事情を加味しても荷物列車と同じ速度で、しかも主要都市を立ち寄りしながら首都圏と九州を輸送するのは不可能で、小荷物に至っては1編成ぶんだとトラックが何台必要だったか想像つきません。
ワキ車の小口貨物が拡大しなかったこともあり、53・10前後は荷物列車が小荷物輸送の大きなシェアを保っていた時代と思われます。
しなの7号
こちらも久しぶりに(模型ではありますが)荷物列車関連記事を書きました。ご覧いただきありがとうございました。
郵便車は一編成に1両又は合造車で賄っていた線区が多い中、東海道山陽筋での郵便輸送量が多かったことがわかりますね。当時の荷38列車の郵便車三重連は、そのなかでも目立ち、印象に残っています。コメントを拝見すると郵便車での鉄道輸送はトラック輸送より効率がよくて、国鉄が荷物営業を廃止しなければ、少なくとも東門便はトラック輸送に転換せず鉄道輸送で継続されていたでしょう。
まったくの妄想で恐縮ですが、国鉄改革が、分割による方法でなければ、、、
いや百歩譲って分割されていても旅客会社と貨物会社とに分割されなかったなら、、、
いやいや、千歩譲って旅客会社と貨物会社とに分割されていても、国鉄時代から荷物輸送が貨物部門に組み入れられて運用されていたなら、JR貨物の一分野として鉄道郵便輸送が平成の時代まで生き延び、(輸送形態は変わっていくにしても)現代まで鉄道郵便が残された可能性はあったようにも思えてきます。
鉄道郵便車保存会会長
拝読しまして、国鉄小荷物輸送の続け方次第では、郵便輸送も続いたとの思いが強くなりました。JR貨物により続けられなかったか…は同感でして、JR後もしばらくは現金輸送車マニ30がコンテナ列車に連結されていたことから、パレット荷物車、郵便車のみならず、マニ50、スユ15の連結(乗務員は乗らず締切?)も技術的には問題はなく、あとは輸送区間、受渡駅と設備をどうしたか、くらいでしょうか。結局、コンテナ輸送だけが続けられていますが、ダイレクトメールなど急がない郵便物に限定されています。
荷36列車は53・10までは東小倉大阪間にもオユ14(阪門上便)の連結があり、大阪駅で解放すると同時に機関車次位にオユ10(阪長下便)を連結する作業があり、大阪米原間も3両連結で、東門便連結の荷物列車に他路線(阪青線)郵便車を併結するのはこれが唯一でした。
しなの7号
私も、そしておそらく多くの鉄道ファンは、荷物列車の廃止後にコンテナ列車に連結された日銀マニ30の写真を見て驚いたと思います。そういうことが可能なら郵政省所管の郵便車による郵便輸送がJR貨物に引き継がれても何の不思議もないですよね。
当時を振り返ると、昭和50年代半ばまで郵便車も荷物車も新車が製造され、それらはわずか数年で廃車(荷物車の一部は転用)される結果となった事実に行き当たります。おそらく車両新製時点では国鉄改革によって荷物列車が全廃される想定ではなかったのでしょう。国鉄は直後に昭和62年4月の施行ありきという拙速で強引な「分割民営にこだわった改革」に向かい始め、それは鉄道による郵便輸送を断念させる方向に作用したことは間違いないでしょう。せめて改革内容が示された後、実際に施行されるまでに時間的余裕があったなら、おっしゃるような貨物列車への荷物車や郵便車の連結に向けて輸送区間、受渡駅と設備の調整も可能だったように思われます。
荷36列車、大阪乗り出しのとき乗務車両の連結位置と即時作業に入った関係で、後方で切り離す車両を目にする機会が一度もありませんでした。当時乗務で持ち歩いた資料を見直してみると、編成表には大阪解放車両も記載されており、オユ14(阪門上便)の運用番は「大郵1」と思われ、大阪で切り離すのは
大郵1オユ・大荷7マニ+広荷206ワキ+広荷205マニ
の計4両となっていました。
鉄道郵便車保存会会長
マニ50など荷物車、郵便車が老朽形式置き換えのため新製されたのに、なぜ数年で廃車?はずっと疑問でしたが、国鉄改革に伴う小荷物輸送全廃が予想されていなかったのであるなら仕方ありません。わかっていれば、製造費1億円前後のスユ16、クモユ143などは登場しなかったかと思われます。小荷物、郵便輸送が民営化後も必要とされ、計画的にJR貨物に移行していれば、このたび模型で拝見する荷物列車を原型として、過渡期はEF62+マニ50・スユ15・パレット主体の編成、そして現代にまで貨物機関車牽引の近代化された荷物列車が受け継がれていたかもしれませんね。
しなの7号
クモユ143が誕生したのが1982年ですが、第二次臨調が国鉄を分割民営化すべきとの基本答申を出したのも同じ年でした。当時の国鉄当局の考えは非分割でありましたから、郵政省がクモユ143を製造することを決定した時点では分割を想定していなかったと思います。改革を非分割で行うのであれば、郵便輸送・荷物輸送の需要がある本線筋には荷物列車は残す前提だったのだろうというのが私の考えです。
与党自民党内にも分割反対論者は多く、ロッキード事件で有罪となった田中角栄もそのうちの一人でした。その田中派の数の力で総理大臣になれた中曽根康弘は、当初は田中派を無視した分割へのGOサインは出せませんでした。第二次臨調の答申どおり1987年の分割に向けて急加速したのは1985年に入ってからで、それは田中角栄が脳梗塞に倒れて政界への影響力が断たれた直後でした。歴史は意外なところから別の方向に進み始めるものですが、この歴史の歯車が一つ狂っていたら、想像もできない形での小荷物や郵便輸送が今も鉄道主体で行われているかもしれないなあと思います。
鉄道郵便車保存会会長
小荷物、郵便輸送廃止の背景に政治的な一面があるところまで考えが及んでいませんでした。また、分割、非分割の違いで影響を受けたことも事実として受け止めておきます。
しなの7号
少し調べたので補足しておきますが、第二次臨調から基本答申が出されたあと、1983年(クモユ143誕生翌年)に国鉄再建監理委員会が設置されています。その国鉄再建監理委員会(分割前提)が1985年に出した答申には、「貨物会社が荷物輪送も含め全国一元の経営体制とするのが適切」だとして、荷物輪送は貨物会社に移管する意向が読み取れます。それとは別に「貨物輸送の現状は自立可能と言えるには程遠い状況である」とも書かれていました。国鉄の将来は国鉄再建監理委員会に委ねられていたわけですが、国鉄は委員会に逆らう形で非分割の独自再建案を公表していました。これが政府の怒りを買い、中曽根康弘は当時の国鉄総裁仁杉巌を事実上解任し杉浦喬也を送り込みました。このあと国鉄役員人事を断行し国鉄本社は分割民営推進派で占められ、万事休すということになりました。(国鉄総裁の任命権者は内閣で、国鉄総裁人事は田中角栄が倒れた翌年のことでした。)
この流れから推察すれば、荷物輸送は分割される旅客会社にはなじまず、貨物会社に移管させるべき業務であったが、貨物会社は黒字化が難しそうで、国鉄再建監理委員会としては不採算が見込まれる荷物輸送を切り捨てたい。ましてや、荷物営業はもともと貨物でなく旅客部門ということで、限られた期間内に貨物部門に移管させるための調整も困難。その結果、荷物輸送に付随する郵便輸送までも切り捨てることに対して、分割民営推進派で占められた国鉄経営陣も何ら異存はなかったのだろうという気もします。
鉄道郵便車保存会会長
小荷物輸送を貨物会社に移管すること自体は妥当だったと思われますが、貨物だけでも黒字化が難しいとされたJR貨物にとって、荷物専用列車、貨物列車への荷物車連結いずれも不採算と判断されたのでしょう。かつて、小口貨物が小荷物に統合される形で廃止された経緯も関係しているように感じられます。また、郵便輸送だけを検討したとしても、拠点間直行のコンテナ列車への連結は輸送実態と合わないことから、郵政省も鉄道輸送をあきらめたでしょう。
しなの7号
貨物会社には荷物輸送が「お荷物」になるという判断があったのでしょうね。おっしゃるように貨物はすでに拠点間の直行輸送体制に移行していたことと、過去に小口貨物が小荷物へ統合されたように貨物輸送に馴染まなくなっていた荷物輸送を無理に押し付けても、貨物会社の収支均衡という絶対条件をクリアするためには足かせになり、切り捨てるしかなかったと考えるのが妥当でしょう。さらに荷物基地(汐留熱田など)が売却予定地とされたこともあり、荷物輸送を継続させれば資産売却の障害になってしまったものと考えられます。
鉄道郵便車保存会会長
荷物輸送が「お荷物」とは複雑ですね。
当時の主要荷物基地が売却対象なら、貨物列車の荷物車連結を実現するには貨物駅の荷扱いしか想定できませんし、荷主のニーズに合わなくなり、利用が低迷したと推定できます。
このたびは、荷物列車の模型をきっかけに、多くの事を知ることができました。また別ページからコメントさせていただきます。
しなの7号
ヤマト運輸が「宅急便」を始めたのが1976年でしたから、1985年時点で9年経っていました。一方で、国鉄小荷物は駅の無人化などで、荷物取扱駅の廃止が相次いでいましたから、その時点ですでに国鉄小荷物の将来性はなく、鉄道郵便の廃止は国鉄改革の巻き添えになったということでしょうか。
模型の出自から廃車までを調べていくと、時代背景も浮かび上がり鉄道の歴史が見えてきますね。
またよろしくお願いします。