前回の続きです。国鉄に就職して、荷物列車から始まり貨物列車に乗務していた昭和51~55年ごろに身近だった列車を、いつものように私の部屋のスチール棚にならべています。
中京地区中心で多少怪しく無理のある再現です。今回はそのうち旅客列車8編成について語ります。
画像上部から順に、展示の右側・中央部・左側です。キハ58系急行編成だけは、スペースの関係で他の電車気動車と離れて、棚の上の方の貨物列車の左方に展示しています。
《159系電車混色編成・20系気動車混色編成》53.10ダイヤ改正と時を同じくして国鉄の車体塗色及び標記基準規程が改正され、修学旅行用車両色と気動車一般色が廃止されました。修学旅行用電車は湘南色に、気動車一般色は首都圏色にそれぞれ変更されることになり、工場入場時に塗装が変わり、新旧塗装が混在する編成が出始めました。塗料の種類を減らし、塗装工程を簡素化するなど少しでも経費を節約して赤字額縮小をしなければならない国鉄のお家事情があるわけです。列車そのものの縮小削減やら営業面では運賃料金改訂があり、明らかに斜陽産業であることを思わせる時代になっていき、趣味的な面白さも下降線をたどってゆきました。
《165系電車混色編成》こちらは新快速色が混入した165系電車で、中央西線の急行電車をイメージしました。53.10ダイヤ改正以前は8両基本と4両付属の12両編成で、その時期に宮原区から転属してきた新快速色クハ165が混入したことがありました。中央西線の急行電車に新車はなく、すべて他地区からの中古165系で賄われていました。ここではスペースの都合で8両基本編成だけを作ってみたのですが、模型に新快速色のクハ165がないのでクハ153-500で代用しており、事実とは大違いのツッコミどころです。
《キハ58系急行編成》
キハ58・キハ28・キロ28・キハ65
1970年代に入ると急行列車の普通車にも冷房車が増えました。この編成は全車冷房車で、3両分の冷房電源を持ったキハ65が入っています。しかしこの編成では同じ冷房電源を持ったキハ28とキロ28(いずれも2000番台)も連結されているので、キハ65でなくキハ58でも差し支えない編成と言えます。冷房中は駅で停車中でも電源用エンジンが作動して発電しているので、非常にうるさかったのをご記憶の方も多いと思いますが、この編成で3両連続で電源用エンジンを回していたとしたら耐えられないなあと思いながら、暑い中でそんな真夏の駅を思い出しながらこれを書いています。
前述の165系のサロ165にはまだグリーンの帯がありますが、このキロ28の窓下からグリーンの帯が消えています。このようにグリーン車の帯が廃止されたのも、あの車体塗色及び標記基準規程の改正によるものでした。
この展示の設定年代の末期となる昭和55年ごろには、キロ28とかサロ165などの急行・普通列車用グリーン車には、帯あり帯なしが混在し、帯なし車が増えていったのですが、帯なし車は見慣れるまではなんとも間の抜けた印象を持ちました。
《111系電車・80系電車・70系電車》
昭和50年代前半の中央西線ローカル列車は、70系・80系の置換え用として新車の113系2000番台が投入されるまでは、各地からの中古車の寄せ集め状態でした。このうち80系は主に中津川以北用で、中間車モハ80は南木曽以北の低いトンネル対策として低屋根800番台と、200番台に折り畳み高さが低いPS23パンタグラフに交換して使用されていました。模型ではそういうことを反映していない(2両とも300番台)ので、またまた運転上の大きなツッコミどころを作ってしまいました。朝晩に送り込みを兼ねた運用があって名古屋でも見ることができました。
70系のほうは瑞浪電化時点から運用され、塩尻電化(全線電化)時にも屋根の改造やパンタグラフの交換がされておらず、名古屋~南木曽間での運用に限られました。70系・80系ともに全金属車300番台と半鋼製車が混用され、80系クハの一部にはクハ85、そして70系6両編成のすべてにサハ75または横須賀色サハ85という1等車格下げ車が連結されていました。80系、70系とも趣味的には面白かったと言えますが、この昭和50年代前半に廃車されていきました。
111系は本来113系とすべきですが代用とさせていただきます。実際に神領にはモハユニットの111系は配置されていませんでしたがモハユニットが111系の時代に製造された初期形クハ111の配置はありました。2000番台が70系や80系の置換え用として、この時期から運用され始めましたが、それまで中央西線で113系に乗れば必ず非冷房でスキマ風がひどいということになっていました。その古い113系はその先も主力車として残るわけですが、113系2000番台とは雲泥の差でした。
《クモハ52スカ色旧国編成・旧国荷物郵便合造クハユニ編成》
飯田線の列車です。個性豊かな飯田線は旧形電車の宝庫でした。この時期(昭和53年)には流電とその中間車サハなどが、80系電車に置き換えられて廃車されていきました。一方でクハユニは豊橋区から伊那松島区に所属を移したうえで飯田線が全車新性能化された1983年まで生き延びました。
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3回にわたって今回のスチール棚のご紹介をしてきましたが、これで終了します。私が旅客列車に乗務するようになったのは、これより先の昭和56年からです。今回の旅客列車に関しては、私が就職してから旅客列車の車掌になるまでの約5年間で国鉄の車両の世代交代を振り返る内容となると同時に、廃車され乗務したことができなかった車両や、乗務するようになる前の編成内容が中心となりました。まったく個人的な車種選択と無理のある車両代用、さらには編成の短縮などで、かなり怪しい内容であったことを改めてお詫びして、終了とさせていただきます。
ご覧いただきましてありがとうございました。
※次回からはモノクロ画像で綴る「一枚の画像から」に戻ります。
この記事へのコメント
NAO
編成というのは遭遇した時期のタイミングによって印象が変わることを今さらではありますが、回想しております。
私の世代の関西人ですと、新快速、湘南混色の153,165系が身近なものだったのではないでしょうか。ブルーライナー新快速が登場した当時、湘南色中間車がはさまっていると、あれには乗りたくないなあ、なんて思ったものですが、逆に新快速塗装が急行編成に入っていると、急行料金を払って新快速車両?なんて自分勝手なことばかり考えておりました。
国鉄のダイヤが寂しくなり始めた時期にようやく乘り鉄出来るようになったのですが、今から見ればそれでもかなり贅沢な時代を見れて良かったと思います。
しなの7号
ご覧になった時期のほかに、地域によっても、同じ編成・同じ車両に対して思うことは違うものでしょう。
中京快速や中央西線系統の急行編成に、珍しいブルーライナー新快速色が混入すれば、狙って乗りたくなりました。確かに内装に差はないにしても、非冷房車があった時代でしたから、新快速のお下がりなら確実に冷房車だということは乗りたくなる理由の一つになったのではないでしょうか。一般的な話として、転属車の前使用線区独自の仕様とか装備があれば、転属車に乗って地元所属区の車両との違いを確かめ、前所属区の装備の名残を確認するのもお楽しみの一つだったかと思います。