【1448】 北恵那鉄道40: 「廃線跡地のその後」(後篇)

北恵那鉄道廃線跡についてのシリーズ記事から10年以上経った今の様子をご覧いただく企画の後半です。文中「現況」としたのはこの2年程度のことで2020~2022年の様子を意味します。現況画像を過去の様子と比較するために、以前の記事に使用した過去の画像も使いまわしますのでご了解ください。
◆並松駅跡
この10年でいちばん変わったのがこの駅でした。現況は住宅用地が造成され、駅の面影は消えてしまいました。
2019年にブログのコメント欄に、この駅跡の草刈りをされていたとおっしゃる方から、ついに宅地化されることになったとの情報提供をしていただきましたので、どのように変貌したのか確認のため翌2020年3月に中津川に出向いたついでに現地に立ち寄ったときの様子がこちらです。
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上の画像は並松駅敷地の下付知側端部から駅跡を見た状態です。この駅は行違設備と貨物積込用の側線もあった駅ですので横幅が広いです。中津町方から下付知方に下っている地形なので、造成された部分は、並行する道路の高さに合わせて削られ、区画ごとに少しずつ段差が設けられています。自動車(アルト)が置いてある場所は、まだ削られていませんので、そこが線路跡の高さになります。アルトは中津町行の電車が並松駅に進入していくイメージで止めてあります。

上の画像正面奥には、建築中と思しき住宅が見えます。造成前の2010年12月にその住宅付近から逆方向(下付知側・上の画像の手前側)を向いて撮影したのが下の画像です。
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この画像の画面奥の樹木が見えるあたりが、造成後の2020年に撮影した画像に写っている自動車(アルト)が止まっている位置になります。そしてこちらの画像の自動車(ミラ)は、中津町に向けて発車した直後のイメージで止めてあります。このころは草が刈られ、並松駅の遺構は長い間非常に良い状態で保存されていたことがわかります。

そして下の画像は廃止前の並松駅です。上の画像のミラの位置は電車の最後部あたりになると思います。
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廃止前でも線路が見えないほどの雑草に覆われていたことがわかりますが、廃止後30年以上経った2010年のミラが写っている画像のほうが、きれいに草が刈られていることが何とも不思議です。現況は住宅がさらに新築されつつあるようですから、近い将来、駅があったことが一層わからなくなるのでしょう。長い間駅跡の草刈りをされていた方に感謝します。

◆中津町の車庫跡
2022年6月の様子です。
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広い道路ができており、車庫がどのように存在したのかわからないほど変貌していました。

そして下の画像は1994年1月の様子です。(再掲)
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画面右側に車庫を解体した後の土間コンクリートが残っていますので、車庫があった位置がかろうじてわかります。
現況画像と見比べていただくと、画面左端の鐘楼と、正面奥の大きな二階建の家屋、そして右端に少し見えている錆びた家屋のトタン屋根で、位置関係がわかりますが、土木工事で地面に手が加えられたことによって、同じ場所かわからないほど変わってしまいました。

そして現役時代1975年1月、雪の日の車庫の画像。
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左側奥に見えるお寺の鐘楼の斜め左下に少しだけ写っている茶色っぽいモノは側線に留置されたワム80000です。ワム80000と屋外に留置されている電車との間に、本線のレールが左に急カーブを描いて敷かれているのが、かろうじてわかります。現況画像と見比べると、本線部分は道路の左側フェンスの向こう側の駐車場の一部になっているように見えます。

駅跡地の現状紹介は以上になりますが、最後に北恵那鉄道最大の遺跡である木曽川橋梁にも、2022年6月、久しぶりに立ち寄ってみました。
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一昔前に記事を書いたころから大きな変化はなさそうでした。この鉄橋は1962年から1年以上かけて水害対策として4m嵩上げされたとのことですので、橋桁は鉄道建設当時から使用されているとしても、この橋台はその嵩上げされたとき建設されたものと思われます。近年は全国で過去に例を見ない規模の水害などの自然災害が多いです。それでもなお大正時代の橋桁が残っているとは驚きに値しますが、そうした防災工事の結果なのかもしれません。

訪れる人が多いからなのか、下付知方橋台部分は草が刈り取られ、枕木が敷かれたままの状態で残されていることが確認できました。
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この木曽川橋梁を含め、他の橋梁跡の様子は「北恵那交通株式会社設立100周年記念誌」(北恵那交通オフィシャルサイトからダウンロードできます。)に画像付きで何か所か紹介されています。

一般に駅構内跡地は他の用途に転用される例が多く、それに伴って駅舎など建物が解体されれば鉄道の痕跡は失われていきやすいものです。その反対に橋梁は、橋桁部分が取り払われても橋台部分は河川改修や道路の拡幅によって除去されなければ、遺物としてそのまま残りやすい構造物です。北恵那鉄道では橋台だけでなく橋桁も取り払われることなくそのままの姿で残っている例が多いようですから、北恵那鉄道の生き証人である鉄道遺跡が末永く残っていけばよいと思っています。

▼2011年に連載していた北恵那鉄道廃線跡のシリーズ記事をご覧いただくには、
【1418】ブログ内シリーズ記事リンク集(鉄道・鉄道旅編)
のなかの「◆北恵那鉄道シリーズ記事◆」記事別リンクから入られると便利です。

この記事へのコメント

  • やくも3号

    しなの7号様 こんばんは。
    前編・後編拝見いたしました。よく「土に還る」という言葉を聞いたり、「人間が絶滅した後の地球の様子」の動画があったりして、いかにもそちらへ向かっている駅跡もあれば、区画整理や土地改良が進んで新たな活用がなされているところもあったりと、いろいろなのですね。

    これで思い出しましたが、新垂井駅跡は現在はどのような感じでしょうか。北恵那鉄道の廃線跡とのちがいは、すぐそばの軌道は現在も特急列車や貨物列車が使用していて、いわば血液が流れているような状態ではありますが。。

    おととい、仕事で近江長岡駅まで行く機会がありましたが、ホームで昼寝する時間も新垂井まで行く時間も近江ちゃんぽんを食する時間もありませんでした・・・



    2022年09月25日 20:23
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    ご覧いただきありがとうございます。
    考古学的な視点での時間の流れの中では、この鉄道や人の一生の50年100年程度はほんの一瞬に過ぎませんね。
    高輪築堤のように破壊されず施設が埋もれたままで永い眠りにつけば、人類滅亡後も鉄道遺跡が化石のように、人類に変わる生命体によって発掘される日が来るのかもしれません。

    新垂井駅にはまったく訪れる機会がなく、現況確認していません。現役の線路わきとは言っても、なかなか車窓から確認はできない場所ですね。
    2022年09月26日 17:30

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