▼初代のダットサンブルーバードでしょうか。なぜ後続車を撮影したのかわかりません。古い車だと思って写したのか? 実は2台以上で出かけて、同行者のクルマを写したのか? 場所も特定できませんが、こういう風景は国道19号の木曽や142号和田峠あたりのイメージに近いような気がいたします。
▼KE70系カローラリフトバック
1980年代中頃の撮影かと思います。義父が乗っていたのがこのクルマでした。偶然にも、私もこの時代にAE70系カローラハードトップ(KEは1300㏄・AEは1500㏄)に乗っていましたから、この型のカローラはお気に入りです。
▼梅小路蒸気機関車館です。かつて扇形庫の裏側にあった展示運転線のD51 200。義父は鉄道オタクではありませんでしたから、鉄道関連の写真はきわめて少なく、今回アップした以外に鉄道画像はありませんでした。しかし、旅は好きだったので、こんなところにも行ったのでしょう。
この写真の直前のカットではないかと思われる写真をもう1枚。
背後の貨物線をDD13が牽引する貨物列車が通過していきます。
旗振り氏の風体はいかにも国鉄らしい・・・
▼485系200番台「やまばと」です。どこで撮影したのか?と思い、次の写真を見て思い当たりました。
ロータリー除雪車です。見覚えがあります。これは鉄道100年を記念して開催された神領電車区の公開イベントでの展示車両に違いなく、右には72形らしきスカ色の電車も見えますし、プリント枠右下の表記から1972年の撮影のようですから、その時期と一致します。このときは新車の485系200番台も展示されていましたから、「やまばと」はこのときの展示車両だと想像がつきます。そして次の写真をご覧いただくと581系が写っています。
これらがすべて同一日の撮影とするならば、訪れた時間帯は金星号で名古屋に着いた581系が、しらさぎ号に変身するために神領電車区に姿を現す時間帯ということになりますので、朝の9時台前半までのはずです。ということはイベント開場直後に撮影したのではないかと思われます。
▼そして、神領電車区の留置車両を周辺から撮影したことが明らかなプリントが2枚出てきました。プリントはフチなしで、70系、80系と103系、165系が見えるので、神領電車区の公開イベントより少し後の時代であることは確かです。1978年には金星編成の「しらさぎ」運用が廃止されて、金星の編成は夜まで神領に留置されるようになっているので、撮影時間帯は不明です。その金星が廃止されたのは1982年で、103系が神領に配置されたのは1977年、70系の撤退が1978年ですから、2枚の写真が同じ日の撮影とするなら1977~1978年の間に撮影されたものと思われます。
▼春日井駅旧駅舎正面です。
【1485】変わりゆく風景(4): 店舗の変化・その他諸々の末尾あたりに書いたように、2009年にジェイアール東海バスが一般路線バス事業から撤退して、そのあとを名鉄バスが引き継ぎました。画像には自動改札機の向こうに停車中の211系下り快速瑞浪行が写りこんでいます。当時は橋上駅ではなく、階段もエレベーターも利用せずに改札からすぐ目の前の下り列車にヒョイと乗れる便利な駅でした。
写っているものは、あまりにも当時の日常そのものですから、何の目的でシャッターを切ったものか私には想像がつきません。それでも、つい最近になって211系も中央西線名古屋口から撤退したことですし、ここに写っているものの多くは現在の非日常風景になっています。
この記事へのコメント
NAO
梅小路の旧展示運転線は懐かしいですね。子供のときですが、地平単線非電化時代の山陰本線旧客列車で京都に向かう際に、丹波口を出て築堤上本線から右側梅小路貨物駅方面貨物線との間の12番扇型庫につながる1本の線路をいつも見下ろしていました。
すでにその線路の出入庫の用途は無くなっていたようですが、まさかその線が展示運転線になるとは思ってもみませんでした。
広大な操車場で乗務が始まるとき、かなり歩かないと乗務車両にたどりつけないのでしょうね。
しなの7号
梅小路蒸気機関車館に行ったとき、この展示運転線が東海道本線とほぼ直角に敷かれていることにまったく気づかず、方向音痴になりました。
列車掛時代、所属する車掌区に梅小路駅で解結するため停車する貨物列車が上りで1本だけあり、ふだんは上位班が乗務していました。その列車に乗務すると、梅小路の群線の中にある配車係詰所に解結通知書を受け取りにいかなければならなかったのですが、予備で急にその列車に乗ることになったら、あの広い構内で受取場所がすぐにわかるかなと不安に思っていました。でも、その列車に乗務することがないまま転勤になったので杞憂に終わりました。
うさお
今と違って局界(社界)をまたぐ運用は普通でしたでしょうから。
そう考えると国鉄基本ルールはあったとはいえ、他局管内のローカルルールもあったでしょうから複雑かつ難解だったのかなと思いました。(大鉄局の列車掛は保安帽をかぶるとか・・・)
しなの7号
私の列車掛時代の乗務範囲は
東海道本線:東静岡~吹田操
東海道本線・中央本線: 稲沢~中津川
東海道本線・関西本線: 稲沢~亀山操
東海道本線(名古屋港線):稲沢~名古屋港・白鳥
東海道本線(西名古屋港線):稲沢~西名古屋港
岡多線:岡崎~北野桝塚
でした。
局ごとに本社規定を受けた規定類がありましたので、運転取扱規定類は乗務範囲の鉄道管理局分を貸与され、乗務に関係する事だけは別に講習やマニュアルで周知されていました。貨物列車は駅側で出発合図をしてくれるし、とりあえず何事もなければ「緩急車から落ちんように乗って」いれば列車が走った時代でしたが、列車が名鉄局管内に入ると安心感が増したものです。
列車掛時代の乗務範囲にはCTC区間がなかったのでよかったですが、客扱いの専務車掌になってからは、名古屋・長野・天王寺局のCTC区間が乗務範囲に加わりました。CTC区間の被制御駅では自分が駅長のようなものですから知らないわけにはいかないのですが、各局毎に定められたCTCによる運転取扱の規定は微妙に異なっていました。。。。
うさお
CTC区間も他局でのお流儀など車掌職の大変さが管理人様の記述だけでも少し感じることが出来ました
しなの7号
東海道本線で他局にわたって乗務する列車は、足が速く勤務時間が稼げない高速貨・直行貨・快速貨ばかりでしたから、他局管内で常時入換作業に従事するような列車はありませんでした。それでも異常時には、どこで作業することになるかわからないので、規定や通過駅も含めて各駅の配線などは知っている必要がありました。
うさお
しなの7号
当時は列車無線はありませんでしたし、携帯する乗務員無線機は機関士との連絡はできても、駅付近でないと駅とは交信できませんでした。
中央西線
しなの7号
たしかにその画像は冬場のようです。義父は鉄ヲタでなくとも鉄道100年記念の神領電車区公開イベントに行った人ですから、70系の引退を翌日の新聞で知って、どんな電車だったか気になって神領へ見に行ったのかもしれないです。
(1978年12月18日中日新聞朝刊「通風筒」欄に前日の70系さよなら運転の記事が掲載されていました。)