【1483】 変わりゆく風景(2):伊勢柏崎・美乃坂本・EF65PF

「変わりゆく風景」の第二回めは、一昔前の駅やその周辺の風景、そしてEF65電気機関車について、年月とともに変わりゆく画像を比較してみましょう。 ▼2008年6月に列車内から撮影した紀勢本線伊勢柏崎駅 国鉄時代、921・924の両列車で荷扱をしていたころの木造駅舎は解体され、いわゆる「貨車駅舎」になっていました。 角型鋼板屋根、両開鋼板扉、車体接合部に見られるリベットからワム70000形式だと思われます。 それから4年後2012年10月、同じように旅の途中に同じ場所を撮影 「貨車駅舎」はなくなっており、折板屋根の鉄骨造で開放的な待合所に置き換えられていました。 そういえば、あちこちでよく見かけた再利用廃貨車(ダルマ)も、近年は数が減ってきました。 ▼リニア中央新幹線の岐阜県駅は中央西線の恵那・中津川間にある美乃坂本駅付近に建設されることになっており、現在は工事が進捗中です。 【1481】「リニア中央新幹線」の看板では、恵那駅と中津川市役所付近にある「リニア中央新幹線」の看板の移り変わりについて書きましたが、着工前の2014年の美乃坂本駅前には、こういう看板がありました。 この看板があった場所は4年後の2018年3月には下のようになっていました。 この看板が掲げられていた建物は、取り壊されてしまっていました。看板はよそへ移設されたものか、それとも建物といっしょに取り壊されてしまったのかは知りません。この看板があった建物の跡地(擁壁の上)は駐車場として利用されてい…

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【1482】 変わりゆく風景(1):高蔵寺駅・八草駅・極楽駅

十年一昔と言いますが、自分の中では最近10年間はついこの前のように感じます。それは年齢のせいかもしれませんが、世の中の移り変わり方が、より速くなってきたのも確かだと思います。 一昔前の画像を見ると、今とは大きく変わったことに気が付くことも多くなったようです。今回はそうした一昔前の駅の画像と現況画像とを比較して、時の流れによる変化を確認してみようと思います。 ▼中央西線高蔵寺駅ホームから名古屋方を見た画像 2003年11月に撮影しています。 ホームに接する線路は愛知環状鉄道のものです。いったん途切れた線路の先には一直線に敷かれた線路が中央西線の上り線に向かって敷かれ、その先で合流しています。愛知環状鉄道開業時から、ずっとこの状態で、線路はJR線とはつながりそうでつながっていませんでした。そのため、JRから愛知環状鉄道に乗り入れる検測車や団体専用列車は、国鉄岡多線時代から線路がつながっていた東海道本線岡崎駅を経由していたのでした。 その後2005年に「愛・地球博」が、愛知県で開催されました。名古屋から会場へのアクセスルートとして、JR東海の中央西線高蔵寺を経由して、リニモ(愛知高速交通)との接続駅となる愛知環状鉄道の八草駅(期間限定で万博八草駅に改称)へ直通する「エキスポシャトル」が運行されることになり、両鉄道の線路がつながることになりました。 こちらは、線路がつながったあと2018年12月にホーム先端で撮影した列車の画像です。「愛・地球博」の閉幕後は愛知環状鉄道に直通する定期…

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【1468】 中央西線昭和以前の遺物(春日井市内)

前回の記事で、春日井市内の中央西線沿線に掲示されている看板について現況調査をしましたが、その際に中央西線の施設で、開業時の面影を残したまま現役で使用されているものや、既に使われなくなったもの及び記念碑的なものも見てきました。新守山~勝川間にある庄内川橋梁付近から定光寺駅付近に向けて順にレポートしていきます。 (今回は定光寺~古虎渓間の旧線廃線跡「愛岐トンネル群」には訪れていません。) ◆庄内川右岸堤防にある橋台(新守山~勝川) 庄内川の右岸堤防下に川と並行するように通っている道路を跨ぐ単線時代の橋梁の、庄内川堤防寄りの橋台が残っていました。橋桁はなく、橋台は高さ制限バーの支えとして利用されていますが、反対側(勝川方)の橋台は取り壊されています。コンクリート製ですから開業以来のものではないと思われます。ネットで古地図を見ると、下を通る道路は中央西線の開通前からあるようですが、単線時代に、道路の拡幅等の理由で橋りょうが架け替えられたのではないかと想像します。画面左が、すぐ近くの庄内川に新橋梁が建設されるとき併せて新造された現在の中央西線の橋りょうです。 ◆煉瓦造トンネル状の通路(新守山~勝川) 土木工事のことには疎いのですが、こういう構造物を溝渠(カルバート)というのでしょうか。庄内川堤防から百数十メートルほど北にあります。中は道路(自動車通行不可)になっていますので、入ってみると明治時代の遺跡に紛れ込んだような気になります。途中からコンクリート製に変わってしまい、現在の線路はそのコ…

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【1457】 2022年の中央西線 

JR東海の3月ダイヤ改正直前に中央西線には新形315系がデビューしました。このダイヤ改正では名古屋~中津川間のローカル列車が終日8両編成に統一されたことが大きな変更点でした。それまでは4両から10両編成まで、さまざまな車種による編成パターンがあったのですが、改正後は、 「315系8両」 「211系5000番台(4両+4両)」 「211系5000番台(3両+3両)+313系1300番台(2両)」 の8両編成3パターンに統一されました。そして、それも来年度末には名古屋~中津川間のローカル列車は「315系8両」に統一されるとのことです。211系5000番台は国鉄分割民営化後に新造された電車ですが、もう世代交代かと思うと、時の流れの速さだけが身に沁みます。趣味的視点に限れば、ずいぶん長きにわたって列車編成のバラエティを楽しませていただきましたが、子供のころから見ていた統一感のない中央西線のローカル列車の印象はあとわずかで払拭され、新時代を迎えることでしょう。 実は近年の私は中央西線に乗車する機会はめったになく、今年は7月に短区間を1往復したきりで、そのときは往復とも211系でしたから新鋭315系にはまだ乗ったことがありません。しかし沿線では日常的に見かけます。 以前にも書いたことがある春日井市内にある大垣戸公園から315系を撮影してみました。211系をこの場所で見られるのはあと1年と少しになりましたが、この211系を模したトイレは、このままずっと残るのでしょうか。まことにどうでもいい話ではあり…

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【1450】 2022年に日本の鉄道は「150周年」を迎えました

150年という長きにわたりご活躍され、今日のこの日をお迎えになったことに、謹んでお祝いの詞を申し上げます。 思えば物心も付かない幼少時から、いつも貴方は私の友であり、人生に潤いを与えてくださいましたことに感謝します。この先、ますますの発展をお祈りしております。 旧新橋駅(復元駅舎) 旧新橋駅0哩標識(国鉄汐留時代) 1号機関車(明治100年記念入場券)以上、日本の鉄道開業時に因む画像でした。日本の鉄道はここから始まりました。 1号機関車はのちに150形という形式を与えられました。150周年にふさわしい形式でもありますので、交通博物館で展示保存されていたころの画像を。 交通博物館が閉館した後は大宮鉄道博物館に移設され今日に至ります。 「150」に因む機関車として、国鉄からJR西日本に引き継がれた電気機関車EF58の150号機の画像を。 38年前「サロンカーなにわ」に乗務したときに、この150号機が牽引していました。現在は現役を引退し、京都鉄道博物館で展示保存されています。(画像の左) 日本の鉄道150周年を迎えた今の、地元中央西線と周辺の様子を確認しておきます。 今年春から新形電車315系がデビューしました。 2022年10月13日の中央西線美乃坂本駅その近くではリニア中央新幹線の建設が進んでいます。 岐阜県駅が建設されると、このあたりはまったく違った街に変貌していくのでしょう。 <2022年10月15日斜字部分追記・画像2枚追加> そ…

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【1449】 1972年に日本の鉄道は「100周年」を迎えました

これは国鉄名古屋鉄道管理局が主に部内の業務用として発行していたポケット時刻表の1972年10月2日ダイヤ改正版の表紙です。「鉄道100年」のロゴマークが入っており、その年が日本の鉄道開業100周年でした。 この年3月には山陽新幹線が岡山まで開業しました。 「ひだ」は高山本線経由で名古屋と金沢を結ぶ気動車特急でしたが、1日1往復しかありませんでした。 C62がまだ北海道でわずかに現役だったことは裏表紙の説明でわかります。 鉄道100周年はSLブームと重なっていました。この入場券は5枚セットの中の1枚で、時刻表と同じ「鉄道100年」のロゴマークが入っています。木曽路D51号は快速「木曽路」(名古屋~木曽福島)とは別に、この年の秋に松本~南木曽間に運転された国鉄長野鉄道管理局仕立ての臨時列車で、ヘッドマークからも鉄道100周年を意識していたのでしょう。(再掲画像) 以前に「【828】撮り鉄12か月…1972年10月「鉄道100年 神領電車区」」で神領電車区(現在の神領車両区)で、車両の展示イベントがあったことや、国鉄が職員に配った記念品のことを書いていますので、よろしければご覧ください。 その神領では新車の485系200番台が展示されましたが、485系はすでに過去の車両となって久しく、車両の一生を超える50年という年月の長さと重みを思い知らされます。 日本全国でこうした鉄道関係イベントや記念事業が繰り広げられ、市中には鉄道100年記念グッズが出回っていました。これらは国鉄職…

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【1448】 北恵那鉄道40: 「廃線跡地のその後」(後篇)

北恵那鉄道廃線跡についてのシリーズ記事から10年以上経った今の様子をご覧いただく企画の後半です。文中「現況」としたのはこの2年程度のことで2020~2022年の様子を意味します。現況画像を過去の様子と比較するために、以前の記事に使用した過去の画像も使いまわしますのでご了解ください。 ◆並松駅跡 この10年でいちばん変わったのがこの駅でした。現況は住宅用地が造成され、駅の面影は消えてしまいました。 2019年にブログのコメント欄に、この駅跡の草刈りをされていたとおっしゃる方から、ついに宅地化されることになったとの情報提供をしていただきましたので、どのように変貌したのか確認のため翌2020年3月に中津川に出向いたついでに現地に立ち寄ったときの様子がこちらです。 上の画像は並松駅敷地の下付知側端部から駅跡を見た状態です。この駅は行違設備と貨物積込用の側線もあった駅ですので横幅が広いです。中津町方から下付知方に下っている地形なので、造成された部分は、並行する道路の高さに合わせて削られ、区画ごとに少しずつ段差が設けられています。自動車(アルト)が置いてある場所は、まだ削られていませんので、そこが線路跡の高さになります。アルトは中津町行の電車が並松駅に進入していくイメージで止めてあります。 上の画像正面奥には、建築中と思しき住宅が見えます。造成前の2010年12月にその住宅付近から逆方向(下付知側・上の画像の手前側)を向いて撮影したのが下の画像です。この画像の画面奥の樹木が見えるあたりが、造成後…

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【1447】 北恵那鉄道39: 「廃線跡地のその後」(前篇)

以前、北恵那鉄道廃線跡についてのシリーズ記事を連載しましたが、それから10年以上経ち、その間に鉄道があった痕跡が消え去ってしまった場所があると思えば、そのまま人の手が入ることなく自然に還りつつある場所もあります。鉄道の痕跡が次々と失われていくことは、往時を知る者にはさみしい思いがいたしますが、時の流れとはそういうものなのでしかたがありません。 今回は、そのシリーズ記事掲載以後に様相が変わった駅跡などを、2回に分けて数か所ピックアップしてご紹介します。文中「現況」としたのはこの2年程度のことで2020~2022年の様子を意味します。現況画像を過去の様子と比較するために、以前の記事に使用した過去の画像も使いまわしますのでご了解ください。 ◆田瀬駅ホーム跡 2020年3月の様子です。近年になってホーム上に家屋が建てられました。 下はその10年前、2010年12月の様子。(再掲) 家屋はまだありませんでした。 現況は家屋が建てられたものの地形の変状はなく、ホームは原形をとどめ、整備もされているので、十分に現役時代の面影が残されています。こうして地面に手を加えない状態で利用されていくことが、結果として長く遺構が残ることになるのかもしれません。 ◆栗本駅ホーム跡 2022年6月の様子石積みの擁壁の上は、かつて付知川に泳ぎにきた多くの人々が乗り降りしたホーム跡です。知っていなければホーム跡とは思えないほど灌木や草に覆われていました。地形自体は変わっていないようですから、整備す…

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【1446】 北恵那鉄道38: 「北恵那電車カラーの復刻バス」

今から44年前の今日9月18日は、北恵那鉄道最終営業日でした。感覚的にはまだ20年くらい前のような気にもなりますが、私がまだ車掌にもなっていない国鉄就職2年目のことだったと、当時の自分に戻って今日までの身の回りの出来事などを振り返れば、44年経っていることにも納得します。 北恵那鉄道株式会社は鉄道事業の廃止翌年に北恵那交通株式会社と社名変更して、今もバス事業を継続中で、2019年から旧北恵那電車カラーの復刻バス(以下電車復刻バス)を運転しています。下の画像の上側は北恵那交通オリジナル塗装のバスで、その下側が電車復刻バスです。先日用事があって中津川に出向いたところ、偶然中津川駅前のバス停に、その復刻バスが停車中でした。 すぐに発車して行ってしまいましたが、10分もしないうちにまた現れました。実は戻ってきたのではなく、それは別の電車復刻バスで、かつて在籍した電車ゆかりの登録番号を付けたナンバープレートを見てすぐ気が付きました。 あわてて撮影した不鮮明画像ですが、かろうじてナンバープレートは、上は「564」で下は「565」と読み取れます。 前面運転席側と車体側面に、かつて電車に車体に取り付けられた切り取りナンバーを模した字体で「564」「565」と書いてある(印刷してある?)のですが、上の画像では不鮮明で読めませんので、側面のナンバー部分の画像を下に貼っておきます。 「564」「565」は実在した電車のナンバーで、電車復刻バスの登録番号(ナンバープレート)もそれに合わせたのでしょう。「564」…

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【1416】 今年もやってきた国鉄の命日

また国鉄の命日が巡ってきました。毎年、日本の鉄道が国鉄時代から少しずつ変わってきたことを意識しますが、その積み重ねが今年で35回めになりました。地元中央西線では今月12日のJRダイヤ改正で、EF64-1000に混じって全区間でEH200が、多治見貨物にEF510が運用され始めました。 国鉄型電機EF64-1000の全般検査は、先月出場した1046号機を以て終了したとのことですから、これから徐々に稼働機が減ってゆき、消滅するのは時間の問題となりました。 また、名古屋~中津川間ではローカル列車の全列車8両化が実施されるとともに、運転区間が中津川を境に完全に分断され、新型車両315系がデビューしました。 その結果、211系の一部が廃車となり、そのなかには国鉄からJR東海に継承された211系0番台8両が含まれます。 このことはJR東海の所有車両が分割民営化後に製造された車両に統一され、国鉄から継承された車両が全廃となったことを意味し、私が乗務したことがある車両がJR東海から消滅したことでもありました。 2年後には名古屋~中津川間のローカル列車は新型の315系に統一されるとのことですから、国鉄はまたまた記憶の彼方に遠のいていくことになります。国鉄が民営化されて35年を経た今も、身近な中央西線は鉄道としての使命を果たし進化し続けているわけですが、日本の鉄道全体を眺めると、そうとも言い切れません。もはや鉄道としての使命を果たしていない線区がいたるところに散在しており、この先のJR線は新幹線と都市部だけ…

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【1385】 DD51の思い出(8 最終回) 稲沢のDD51人生いろいろ

長々とこのシリーズを続けてしまいましたが、今回で最終回となります。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私が乗務した列車を牽いてくれたDD51は、ほとんどが稲沢第一機関区(のちに稲沢機関区)の所属で、一部の列車では亀山機関区の所属でした。いちばん多くDD51のお世話になったのは貨物列車の列車掛時代(1980年を中心とした約1年半)であったことは、以前にもこのシリーズ記事の中で書きましたが、その当時の稲沢第一機関区に配属されていたDD51について、1980年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表で確認しておきましょう。 《稲沢第一機関区配置DD51=27両》 661 662 712 713 714 717 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 889 890 891 892 893 896 自分の乗務記録と照合すると、貨物列車乗務時代に27両すべてに乗務列車を牽いてもらっています。 それから5年後の1985年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表ではどう変化しているでしょう。 《稲沢機関区配置DD51=33両》 555 556 557 558 587 588 589 590 591 592 712 713 714 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 889 890 891 8…

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【1384】 DD51の思い出(7)愛知機関区DD51 825

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 今から2年前に「【983】稲沢にて ~DD51 890に寄せて~」の記事で、稲沢生え抜きのDD51 890号機と891号機のことを書きました。その2両はその後、解体されています。その記事の最後に、私は「愛知機関区で稼働しているDD51はあと数両となりました。稼働機の中には稲沢第一機関区時代から在籍する825号機もいます。終焉までに一度くらいはDD51の「生エンジン音」を聴きに関西本線に出向こうと思っています。」と書いたのですが、その後、825号機は休車になったらしく、あれから一度もDD51に会いに出かけることがないまま愛知機関区のDD51は終焉を迎えました。それでも825号機は稼働機ではなかったとは言っても稲沢生え抜きの最後の1両であったことには違いなく、縁があった者として感慨深いものがあります。 DD51 825は1970年9月8日に三菱重工業で製造された機関車です。1970年と言えば大阪万博が開催された年で、この年10月からは国鉄の「DISCOVER→JAPAN」キャンペーンが始まり、首都圏では高島線のSL廃止イベントで東京駅からD51 791が運転されています。こうしたSLブームの真っただ中でDD51 825は誕生していました。中京圏でも東海道本線の名古屋~米原間でD51が牽くSL臨時列車が、DD51 825の新製日の一週間後となる9月15日から運転されたということですので、あるいはDD51 825の配…

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【1383】 DD51の思い出(6)展示機関車・保存機関車との出会い

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。前回は旅先で見た「列車の先頭に立つDD51」の画像を集めてみましたが、今回はイベント会場で展示されていたDD51や、博物館などで保存展示されているDD51の画像を集めました。 (過去の記事で紹介したことがある再掲載画像を含みます。) ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ まずは、イベント等で展示されていたDD51から見ていきましょう。 1986年5月1日 DD51 891 笹島(再掲画像) 愛知県に鉄道が敷設されて100年になるということで、国鉄末期の春の大型連休中7日間にわたって旧笹島貨物駅で「愛知の鉄道100年フェア」というイベントがありました。その中でDD51運転室の試乗会が行われ、構内を往復していました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ お召列車けん引機が、イベント時にお召装備を再現して展示される例はよくあります。 1987年8月22日 夏休みの稲沢機関区公開イベントに行ったときには、EF64 77とDD51 820との並びで展示されていました。(再掲画像) ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2005年5月28日に出かけた恒例のJRおおみや鉄道ふれあいフェアでは、大宮総合車両センターでJR東日本のお…

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【1382】 DD51の思い出(5)旅先での出会い

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は旅人として旅先で出会ったDD51の画像を貼っていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私は国鉄で乗務員として列車に乗っていた(正しくは乗らされていた)わけですが、国鉄在職中にはプライベートで列車に乗って旅に出るようなことはあまりありませんでした。仕事で列車に乗っていると、プライベートでは自家用車で出かけたいという気持ちが強かったのです。国鉄を退職してみると、こんどは仕事で、やたらと広い名古屋の道路や一方通行など交通規制だらけの狭くて混んだ市街地の路地を、会社の自動車で走ることが多くなりました。そうすると、その反動なのでしょうか。プライベートでは列車に乗って旅をしたいという気持ちが湧いてきました。そして国鉄の面影を残す未乗線区に乗りに行くようになり、ついには恥ずかしいことに、旧国鉄から経営形態を変えた線区を乗りつくすために、ほかに用もないのに全国各地に出かけるまでになってしまいました。すでにJRの旅客列車はほとんどが気動車や電車になっていましたが、乗換駅や折り返す駅に偶然に停車していたDD51が牽く貨物列車などにカメラを向けたこともありました。今回はそういう旅の途中に…

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【1381】 DD51の思い出(4)高山本線のDD51から見えてくる鉄道の移り変わり

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、今回は撮影対象とした立場で、高山本線で走っていたころのDD51について書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 高山本線では、昭和42年度から3か年をかけた輸送近代化計画が実施され、そのなかで客車列車は気動車化、貨物列車はDD51によって無煙化を早期に達成した近代化線区でした。ここではDD51が国鉄分割民営化後まで長きにわたって使用されていました。主に国鉄時代に高山本線で撮影したDD51牽引列車の編成から、貨物列車と臨時旅客列車に分けて、昭和50年代中期から国鉄改革をはさんで21世紀を迎えようとしていた時期までの鉄道の変化を見ていこうと思います。 まずは貨物列車からご覧いただきましょう。 1979年2月24日 少ヶ野(信)~焼石 組成された貨車の種類がさまざまです。これは中間駅で貨物扱いをする駅が多く、途中駅で連結解放を繰り返していたことを現しています。もちろんこのころには岐阜・富山間全線にわたって直通する貨物列車の設定があり、昔からずっと続けられた全国ネットの鉄道貨物輸送があった時代のDD51の姿です。 1984年10月26日 鷲原(信)~下油井 国鉄も末期に近づいてくると、貨物取扱駅が集約されてゆき専用列車化が進み…

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【1380】 DD51の思い出(3)旅客列車の乗務員時代

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は私が国鉄在職中の後半にあたる旅客列車乗務員時代のDD51のことを書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 列車掛を1年半ほど経験したあと、旅客列車ばかりに乗務する車掌区に転勤しました。それまでは貨物列車専門の車掌区に配属されていたため、車掌としての資格はありながら「車掌」の職名ではありませんでした(客車列車も乗務する車掌区だと「車掌兼列車掛」という職名)が、貨車の検査業務はしないことになり、職名は「車掌」で、初めて赤い腕章を貸与されました。時は関西本線の亀山電化を翌年に控えた1981年。関西本線には旧形客車列車がまだ残っており、稲沢第一・亀山両機関区のDD51が旅客列車をけん引していましたので、ここでも関西本線名古屋~亀山間でDD51が牽く列車に乗務する機会がありました。ただし自分が乗務する列車には亀山機関区の運用はなく、さらに旧形客車列車には暖房用の蒸気発生装置(SG)が必要ですので、稲沢第一機関区配置のDD51のうち過半数を占めていたSG非装備の800番台とは仕事上での関わりがなくなってしまいました。 関西本線で旧形客車列車を牽くDD51の画像は【64…

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【1379】 DD51の思い出(2)荷物列車・貨物列車の乗務員時代

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行が、この3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は私が国鉄在職中の前半にあたる荷物列車・貨物列車の乗務員時代にあったDD51との出会いについて書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私は1976年に国鉄に就職し、国鉄が分割民営化されるまで11年間車掌区で乗務員をしていました。その間、乗務掛(荷扱)~車掌補(荷扱)~列車掛~車掌~専務車掌(客扱)と職名が変わり、勤務先も2度変わりましたが、すべての職種で、稲沢第一機関区(稲沢第二機関区と統合後は稲沢機関区)と亀山機関区のDD51に、乗務した列車を牽いてもらう機会がありました。 就職直後の約3年間は荷物車の荷扱乗務員でした。職名はその間に乗務掛(荷扱)から車掌補(荷扱)と変わりましたが、仕事の内容は荷物車内での荷物の仕訳作業でした。就職した時点でDD51が牽引する列車に乗務したのは関西本線の名古屋~亀山~百済(現百済貨物ターミナル)の間でした。過去記事「【478】思い出の乗務列車39:関西本線 荷44~224列車(前篇)」では、新堂駅で撮影したDD51が牽引する荷44列車の画像を掲載しています。また、「【370】思い出の乗務列車19:紀勢本線921列車(前…

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【1378】 DD51の思い出(1)全線電化前の中央西線

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月13日のダイヤ改正でなくなりました。国鉄型車両が地元で見られなくなっていくのは寂しいですが、車齢から考えても世代交代になるのは致し方ないことで、よくぞここまで生き延びてくれたと思います。 一昨年2019年11月11日 愛知機関区横の側線で解体を待つDD51 1146 と1147 彼らは鷲別から転属した道産子A寒地仕様機でした。 自分にとってDD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内や、そのコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながらDD51との接点や想いなどを数回に分けて書き留めておこうと思います。今回は私が国鉄に就職する前に、中央西線で日常的に見ることができたDD51についてです。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ ディーゼル機関車というものを初めて見たのは1966年の篠ノ井線でした。その日のことは「【867】52年前の家族旅行を辿ってみる」で少し触れていますが、そのとき自分が乗った列車を牽いていた赤い機関車は、おそらくDD51だったと思います。その日は赤い車体だったことを確認しただけなので、凸型の特徴ある外観を間近に見て、ずいぶん変な形の機関車だと思ったのは、その少し後で、地元中央西線の旅客列車の無煙化用として稲沢第一機関区に配置されたDD51を地元で見たときでした。当初は稲沢第一機関区に5両、2ケ…

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【1376】50年前のカメラと鉄道写真

今年は初めて自分のカメラを持ってから50周年にあたります。最初に所有したカメラは、このKONICA C35で、ここからカメラとの付き合いが始まりました。このカメラで初めて列車の撮影をしたときの画像がこちらです。肝心の列車は小さくなってしまいましたので、どちらの画像もトリミングしてあります。なにぶんにも初めての鉄道写真撮影であったことと、レンズシャッター式焦点距離38㎜のカメラですので、何が写っているか判るだけよしとしなければなりません。撮影場所は美乃坂本~恵那間。撮影は1971年4月ですが日付が特定できていません。両方とも既出画像で、電車は475系中津川発名古屋行。多治見~大曽根間無停車の快速運転で、この編成は名古屋到着後に急行玄海号博多行になりました。客車列車の方は名古屋を朝一番に出る長野行普通列車です。 今ではこの場所にはフェンスが設けられていますので、同じ場所からこのように撮影するのは難しそうではありますが、なにぶんにも田舎のことですから周辺の様子は、家が増えた程度で50年経ってもそれほど変わっていません。しかしこの先、リニア中央新幹線の工事が本格化すると背景は大きく変わるのだろうと思います。 このころの中央西線の看板列車は181系DCで運転されていた特急しなの号でした。下の画像は、そのKONICA C35で撮影した181系DC時代の特急しなの号です。2枚とも落合川~中津川間での撮影で、撮影時期はカメラを買ってから2年後(1973年)です。 私の父は多少はカメラを嗜む人でしたので、…

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【993】 1977年全国植樹祭お召し列車(DD51・DF50・DE10)

今月に入って令和初のお召し列車がE655系によって運転されたそうです。昭和のお召し列車については、40年前になる1979年5月に愛知県で開催された全国植樹祭のときのことを6月に書きましたが、今回はその2年前(1977年)に和歌山県で開催された全国植樹祭のときのお召し列車について書いておきます。 当時の私は国鉄に入って1年経ったばかりで、荷扱乗務員として荷物車に乗務しているころでした。所属する車掌区は、人数のわりに意外なほど鉄道ファンが少ない車掌区でしたが、同じ荷扱の仕事をしている先輩で鉄道写真を撮る方が1人おられたので鉄道談議ができるようになり、その先輩がお召し列車を撮りに行くがいっしょに来るか?というので、撮影に出かけたのです。お召し列車の往路は、1977年4月16日、名古屋までの新幹線を受けて、 名古屋-(伊勢線経由)→津(DD51820〔稲一〕) 津→那智(DF50 57〔亀〕+DF50 59〔亀〕) というリレーで運転されました。当日の私は休みでした。お召し列車は津を境に牽引機が変わるのですが、両方を撮影することは時間的に不可能でしたので、以後あるかないかわからないDF50重連を優先して、紀勢本線内で撮影することにして、走りの撮影地は多気の櫛田川橋梁となりました。 その日、津までのお召し牽引機DD51820は稲沢から名古屋駅まで単機回送され、私どもは名古屋駅の構内側線に留置されたのを見届けた直後に天王寺行特急「くろしお5号」で津まで移動しました。 直接撮影地の多気まで行かずに津…

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