【1447】 北恵那鉄道39: 「廃線跡地のその後」(前篇)

以前、北恵那鉄道廃線跡についてのシリーズ記事を連載しましたが、それから10年以上経ち、その間に鉄道があった痕跡が消え去ってしまった場所があると思えば、そのまま人の手が入ることなく自然に還りつつある場所もあります。鉄道の痕跡が次々と失われていくことは、往時を知る者にはさみしい思いがいたしますが、時の流れとはそういうものなのでしかたがありません。 今回は、そのシリーズ記事掲載以後に様相が変わった駅跡などを、2回に分けて数か所ピックアップしてご紹介します。文中「現況」としたのはこの2年程度のことで2020~2022年の様子を意味します。現況画像を過去の様子と比較するために、以前の記事に使用した過去の画像も使いまわしますのでご了解ください。 ◆田瀬駅ホーム跡 2020年3月の様子です。近年になってホーム上に家屋が建てられました。 下はその10年前、2010年12月の様子。(再掲) 家屋はまだありませんでした。 現況は家屋が建てられたものの地形の変状はなく、ホームは原形をとどめ、整備もされているので、十分に現役時代の面影が残されています。こうして地面に手を加えない状態で利用されていくことが、結果として長く遺構が残ることになるのかもしれません。 ◆栗本駅ホーム跡 2022年6月の様子石積みの擁壁の上は、かつて付知川に泳ぎにきた多くの人々が乗り降りしたホーム跡です。知っていなければホーム跡とは思えないほど灌木や草に覆われていました。地形自体は変わっていないようですから、整備す…

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【1446】 北恵那鉄道38: 「北恵那電車カラーの復刻バス」

今から44年前の今日9月18日は、北恵那鉄道最終営業日でした。感覚的にはまだ20年くらい前のような気にもなりますが、私がまだ車掌にもなっていない国鉄就職2年目のことだったと、当時の自分に戻って今日までの身の回りの出来事などを振り返れば、44年経っていることにも納得します。 北恵那鉄道株式会社は鉄道事業の廃止翌年に北恵那交通株式会社と社名変更して、今もバス事業を継続中で、2019年から旧北恵那電車カラーの復刻バス(以下電車復刻バス)を運転しています。下の画像の上側は北恵那交通オリジナル塗装のバスで、その下側が電車復刻バスです。先日用事があって中津川に出向いたところ、偶然中津川駅前のバス停に、その復刻バスが停車中でした。 すぐに発車して行ってしまいましたが、10分もしないうちにまた現れました。実は戻ってきたのではなく、それは別の電車復刻バスで、かつて在籍した電車ゆかりの登録番号を付けたナンバープレートを見てすぐ気が付きました。 あわてて撮影した不鮮明画像ですが、かろうじてナンバープレートは、上は「564」で下は「565」と読み取れます。 前面運転席側と車体側面に、かつて電車に車体に取り付けられた切り取りナンバーを模した字体で「564」「565」と書いてある(印刷してある?)のですが、上の画像では不鮮明で読めませんので、側面のナンバー部分の画像を下に貼っておきます。 「564」「565」は実在した電車のナンバーで、電車復刻バスの登録番号(ナンバープレート)もそれに合わせたのでしょう。「564」…

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【1416】 今年もやってきた国鉄の命日

また国鉄の命日が巡ってきました。毎年、日本の鉄道が国鉄時代から少しずつ変わってきたことを意識しますが、その積み重ねが今年で35回めになりました。地元中央西線では今月12日のJRダイヤ改正で、EF64-1000に混じって全区間でEH200が、多治見貨物にEF510が運用され始めました。 国鉄型電機EF64-1000の全般検査は、先月出場した1046号機を以て終了したとのことですから、これから徐々に稼働機が減ってゆき、消滅するのは時間の問題となりました。 また、名古屋~中津川間ではローカル列車の全列車8両化が実施されるとともに、運転区間が中津川を境に完全に分断され、新型車両315系がデビューしました。 その結果、211系の一部が廃車となり、そのなかには国鉄からJR東海に継承された211系0番台8両が含まれます。 このことはJR東海の所有車両が分割民営化後に製造された車両に統一され、国鉄から継承された車両が全廃となったことを意味し、私が乗務したことがある車両がJR東海から消滅したことでもありました。 2年後には名古屋~中津川間のローカル列車は新型の315系に統一されるとのことですから、国鉄はまたまた記憶の彼方に遠のいていくことになります。国鉄が民営化されて35年を経た今も、身近な中央西線は鉄道としての使命を果たし進化し続けているわけですが、日本の鉄道全体を眺めると、そうとも言い切れません。もはや鉄道としての使命を果たしていない線区がいたるところに散在しており、この先のJR線は新幹線と都市部だけ…

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【1385】 DD51の思い出(8 最終回) 稲沢のDD51人生いろいろ

長々とこのシリーズを続けてしまいましたが、今回で最終回となります。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私が乗務した列車を牽いてくれたDD51は、ほとんどが稲沢第一機関区(のちに稲沢機関区)の所属で、一部の列車では亀山機関区の所属でした。いちばん多くDD51のお世話になったのは貨物列車の列車掛時代(1980年を中心とした約1年半)であったことは、以前にもこのシリーズ記事の中で書きましたが、その当時の稲沢第一機関区に配属されていたDD51について、1980年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表で確認しておきましょう。 《稲沢第一機関区配置DD51=27両》 661 662 712 713 714 717 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 889 890 891 892 893 896 自分の乗務記録と照合すると、貨物列車乗務時代に27両すべてに乗務列車を牽いてもらっています。 それから5年後の1985年版(3月31日現在)の国鉄車両配置表ではどう変化しているでしょう。 《稲沢機関区配置DD51=33両》 555 556 557 558 587 588 589 590 591 592 712 713 714 746 749 750 751 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 889 890 891 8…

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【1384】 DD51の思い出(7)愛知機関区DD51 825

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 今から2年前に「【983】稲沢にて ~DD51 890に寄せて~」の記事で、稲沢生え抜きのDD51 890号機と891号機のことを書きました。その2両はその後、解体されています。その記事の最後に、私は「愛知機関区で稼働しているDD51はあと数両となりました。稼働機の中には稲沢第一機関区時代から在籍する825号機もいます。終焉までに一度くらいはDD51の「生エンジン音」を聴きに関西本線に出向こうと思っています。」と書いたのですが、その後、825号機は休車になったらしく、あれから一度もDD51に会いに出かけることがないまま愛知機関区のDD51は終焉を迎えました。それでも825号機は稼働機ではなかったとは言っても稲沢生え抜きの最後の1両であったことには違いなく、縁があった者として感慨深いものがあります。 DD51 825は1970年9月8日に三菱重工業で製造された機関車です。1970年と言えば大阪万博が開催された年で、この年10月からは国鉄の「DISCOVER→JAPAN」キャンペーンが始まり、首都圏では高島線のSL廃止イベントで東京駅からD51 791が運転されています。こうしたSLブームの真っただ中でDD51 825は誕生していました。中京圏でも東海道本線の名古屋~米原間でD51が牽くSL臨時列車が、DD51 825の新製日の一週間後となる9月15日から運転されたということですので、あるいはDD51 825の配…

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【1383】 DD51の思い出(6)展示機関車・保存機関車との出会い

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。前回は旅先で見た「列車の先頭に立つDD51」の画像を集めてみましたが、今回はイベント会場で展示されていたDD51や、博物館などで保存展示されているDD51の画像を集めました。 (過去の記事で紹介したことがある再掲載画像を含みます。) ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ まずは、イベント等で展示されていたDD51から見ていきましょう。 1986年5月1日 DD51 891 笹島(再掲画像) 愛知県に鉄道が敷設されて100年になるということで、国鉄末期の春の大型連休中7日間にわたって旧笹島貨物駅で「愛知の鉄道100年フェア」というイベントがありました。その中でDD51運転室の試乗会が行われ、構内を往復していました。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ お召列車けん引機が、イベント時にお召装備を再現して展示される例はよくあります。 1987年8月22日 夏休みの稲沢機関区公開イベントに行ったときには、EF64 77とDD51 820との並びで展示されていました。(再掲画像) ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 2005年5月28日に出かけた恒例のJRおおみや鉄道ふれあいフェアでは、大宮総合車両センターでJR東日本のお…

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【1382】 DD51の思い出(5)旅先での出会い

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は旅人として旅先で出会ったDD51の画像を貼っていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私は国鉄で乗務員として列車に乗っていた(正しくは乗らされていた)わけですが、国鉄在職中にはプライベートで列車に乗って旅に出るようなことはあまりありませんでした。仕事で列車に乗っていると、プライベートでは自家用車で出かけたいという気持ちが強かったのです。国鉄を退職してみると、こんどは仕事で、やたらと広い名古屋の道路や一方通行など交通規制だらけの狭くて混んだ市街地の路地を、会社の自動車で走ることが多くなりました。そうすると、その反動なのでしょうか。プライベートでは列車に乗って旅をしたいという気持ちが湧いてきました。そして国鉄の面影を残す未乗線区に乗りに行くようになり、ついには恥ずかしいことに、旧国鉄から経営形態を変えた線区を乗りつくすために、ほかに用もないのに全国各地に出かけるまでになってしまいました。すでにJRの旅客列車はほとんどが気動車や電車になっていましたが、乗換駅や折り返す駅に偶然に停車していたDD51が牽く貨物列車などにカメラを向けたこともありました。今回はそういう旅の途中に…

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【1381】 DD51の思い出(4)高山本線のDD51から見えてくる鉄道の移り変わり

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、今回は撮影対象とした立場で、高山本線で走っていたころのDD51について書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 高山本線では、昭和42年度から3か年をかけた輸送近代化計画が実施され、そのなかで客車列車は気動車化、貨物列車はDD51によって無煙化を早期に達成した近代化線区でした。ここではDD51が国鉄分割民営化後まで長きにわたって使用されていました。主に国鉄時代に高山本線で撮影したDD51牽引列車の編成から、貨物列車と臨時旅客列車に分けて、昭和50年代中期から国鉄改革をはさんで21世紀を迎えようとしていた時期までの鉄道の変化を見ていこうと思います。 まずは貨物列車からご覧いただきましょう。 1979年2月24日 少ヶ野(信)~焼石 組成された貨車の種類がさまざまです。これは中間駅で貨物扱いをする駅が多く、途中駅で連結解放を繰り返していたことを現しています。もちろんこのころには岐阜・富山間全線にわたって直通する貨物列車の設定があり、昔からずっと続けられた全国ネットの鉄道貨物輸送があった時代のDD51の姿です。 1984年10月26日 鷲原(信)~下油井 国鉄も末期に近づいてくると、貨物取扱駅が集約されてゆき専用列車化が進み…

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【1380】 DD51の思い出(3)旅客列車の乗務員時代

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は私が国鉄在職中の後半にあたる旅客列車乗務員時代のDD51のことを書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 列車掛を1年半ほど経験したあと、旅客列車ばかりに乗務する車掌区に転勤しました。それまでは貨物列車専門の車掌区に配属されていたため、車掌としての資格はありながら「車掌」の職名ではありませんでした(客車列車も乗務する車掌区だと「車掌兼列車掛」という職名)が、貨車の検査業務はしないことになり、職名は「車掌」で、初めて赤い腕章を貸与されました。時は関西本線の亀山電化を翌年に控えた1981年。関西本線には旧形客車列車がまだ残っており、稲沢第一・亀山両機関区のDD51が旅客列車をけん引していましたので、ここでも関西本線名古屋~亀山間でDD51が牽く列車に乗務する機会がありました。ただし自分が乗務する列車には亀山機関区の運用はなく、さらに旧形客車列車には暖房用の蒸気発生装置(SG)が必要ですので、稲沢第一機関区配置のDD51のうち過半数を占めていたSG非装備の800番台とは仕事上での関わりがなくなってしまいました。 関西本線で旧形客車列車を牽くDD51の画像は【64…

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【1379】 DD51の思い出(2)荷物列車・貨物列車の乗務員時代

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行が、この3月のダイヤ改正で終了しました。 DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながら進めています。今回は私が国鉄在職中の前半にあたる荷物列車・貨物列車の乗務員時代にあったDD51との出会いについて書いていきます。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 私は1976年に国鉄に就職し、国鉄が分割民営化されるまで11年間車掌区で乗務員をしていました。その間、乗務掛(荷扱)~車掌補(荷扱)~列車掛~車掌~専務車掌(客扱)と職名が変わり、勤務先も2度変わりましたが、すべての職種で、稲沢第一機関区(稲沢第二機関区と統合後は稲沢機関区)と亀山機関区のDD51に、乗務した列車を牽いてもらう機会がありました。 就職直後の約3年間は荷物車の荷扱乗務員でした。職名はその間に乗務掛(荷扱)から車掌補(荷扱)と変わりましたが、仕事の内容は荷物車内での荷物の仕訳作業でした。就職した時点でDD51が牽引する列車に乗務したのは関西本線の名古屋~亀山~百済(現百済貨物ターミナル)の間でした。過去記事「【478】思い出の乗務列車39:関西本線 荷44~224列車(前篇)」では、新堂駅で撮影したDD51が牽引する荷44列車の画像を掲載しています。また、「【370】思い出の乗務列車19:紀勢本線921列車(前…

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【1378】 DD51の思い出(1)全線電化前の中央西線

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月13日のダイヤ改正でなくなりました。国鉄型車両が地元で見られなくなっていくのは寂しいですが、車齢から考えても世代交代になるのは致し方ないことで、よくぞここまで生き延びてくれたと思います。 一昨年2019年11月11日 愛知機関区横の側線で解体を待つDD51 1146 と1147 彼らは鷲別から転属した道産子A寒地仕様機でした。 自分にとってDD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内や、そのコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、その関わりについて関連する過去記事へのリンクを貼りながらDD51との接点や想いなどを数回に分けて書き留めておこうと思います。今回は私が国鉄に就職する前に、中央西線で日常的に見ることができたDD51についてです。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ ディーゼル機関車というものを初めて見たのは1966年の篠ノ井線でした。その日のことは「【867】52年前の家族旅行を辿ってみる」で少し触れていますが、そのとき自分が乗った列車を牽いていた赤い機関車は、おそらくDD51だったと思います。その日は赤い車体だったことを確認しただけなので、凸型の特徴ある外観を間近に見て、ずいぶん変な形の機関車だと思ったのは、その少し後で、地元中央西線の旅客列車の無煙化用として稲沢第一機関区に配置されたDD51を地元で見たときでした。当初は稲沢第一機関区に5両、2ケ…

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【1376】50年前のカメラと鉄道写真

今年は初めて自分のカメラを持ってから50周年にあたります。最初に所有したカメラは、このKONICA C35で、ここからカメラとの付き合いが始まりました。このカメラで初めて列車の撮影をしたときの画像がこちらです。肝心の列車は小さくなってしまいましたので、どちらの画像もトリミングしてあります。なにぶんにも初めての鉄道写真撮影であったことと、レンズシャッター式焦点距離38㎜のカメラですので、何が写っているか判るだけよしとしなければなりません。撮影場所は美乃坂本~恵那間。撮影は1971年4月ですが日付が特定できていません。両方とも既出画像で、電車は475系中津川発名古屋行。多治見~大曽根間無停車の快速運転で、この編成は名古屋到着後に急行玄海号博多行になりました。客車列車の方は名古屋を朝一番に出る長野行普通列車です。 今ではこの場所にはフェンスが設けられていますので、同じ場所からこのように撮影するのは難しそうではありますが、なにぶんにも田舎のことですから周辺の様子は、家が増えた程度で50年経ってもそれほど変わっていません。しかしこの先、リニア中央新幹線の工事が本格化すると背景は大きく変わるのだろうと思います。 このころの中央西線の看板列車は181系DCで運転されていた特急しなの号でした。下の画像は、そのKONICA C35で撮影した181系DC時代の特急しなの号です。2枚とも落合川~中津川間での撮影で、撮影時期はカメラを買ってから2年後(1973年)です。 私の父は多少はカメラを嗜む人でしたので、…

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【993】 1977年全国植樹祭お召し列車(DD51・DF50・DE10)

今月に入って令和初のお召し列車がE655系によって運転されたそうです。昭和のお召し列車については、40年前になる1979年5月に愛知県で開催された全国植樹祭のときのことを6月に書きましたが、今回はその2年前(1977年)に和歌山県で開催された全国植樹祭のときのお召し列車について書いておきます。 当時の私は国鉄に入って1年経ったばかりで、荷扱乗務員として荷物車に乗務しているころでした。所属する車掌区は、人数のわりに意外なほど鉄道ファンが少ない車掌区でしたが、同じ荷扱の仕事をしている先輩で鉄道写真を撮る方が1人おられたので鉄道談議ができるようになり、その先輩がお召し列車を撮りに行くがいっしょに来るか?というので、撮影に出かけたのです。お召し列車の往路は、1977年4月16日、名古屋までの新幹線を受けて、 名古屋-(伊勢線経由)→津(DD51820〔稲一〕) 津→那智(DF50 57〔亀〕+DF50 59〔亀〕) というリレーで運転されました。当日の私は休みでした。お召し列車は津を境に牽引機が変わるのですが、両方を撮影することは時間的に不可能でしたので、以後あるかないかわからないDF50重連を優先して、紀勢本線内で撮影することにして、走りの撮影地は多気の櫛田川橋梁となりました。 その日、津までのお召し牽引機DD51820は稲沢から名古屋駅まで単機回送され、私どもは名古屋駅の構内側線に留置されたのを見届けた直後に天王寺行特急「くろしお5号」で津まで移動しました。 直接撮影地の多気まで行かずに津…

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【987】 EF58 60号機と61号機の思い出画像

下は1996年11月9日JRおおみや鉄道ふれあいフェアで撮影したEF5861号機のサイドです。 私は特別なEF58フリークというわけではありませんが、国鉄に就職した直後の約3年間、荷扱作業員として乗務していた荷物列車を東海道本線で牽引していた機関車がEF58だったので馴染みはあり、旅客用機関車としての威厳も感じています。その中で60号機と61号機はブラウン系の車体にステンレスのラインが入り、ひときわ目立っていたので印象に残りました。 60号機を初めて見たのは、高校生時代の名古屋駅でした。 九州へSL撮影に行く途中、名古屋駅で急行「桜島・高千穂」に乗る前に、偶然にも60号機が牽引する上り荷物列車に出くわしました。その列車は荷42列車で、それから3年後には実際にその列車の機関車の直後に連結された「マニ」に乗務することになる列車でありました。 1973年8月2日 名古屋 この画像は【549】思い出の乗務列車46:東海道本線 荷42列車の使いまわしです。乗務している荷物列車の牽引機が60号機だったことは幾度かありました。 上の画像では、正面窓がまだ原型を保っていますが、それから5年半後に撮影した下の画像では、正面窓はHゴム支持の小窓に改造されています。1979年3月9日 荷2033列車 新鶴見 私自身はこの画像を撮影した翌4月に荷扱乗務員を卒業しました。そしてEF5860はその年の5月に愛知県植樹祭で運転されたお召し列車の予備機を務めることになります。 _/_/_/_/_/_/…

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【986】 御料車1号編成の回送列車(1979年/岡多線・東海道本線)

前回、40年前の1979年5月26日~27日に愛知県で行われた全国植樹祭で運転されたお召し列車について書きましたが、今回はその続きです。 このお召し列車の運転日は土日曜でしたので、沿線はかなりの人出でした。これは飯田線の上りお召し列車を撮影した場所の様子です。警察官と鉄道公安職員も現れ、撮影者とのやりとりがありましたが、大勢の撮影者を排除させるようなことはなく無事に撮影できました。 このころの私は部内試験に合格し、列車掛(車掌業務に加え貨車の検査業務をする乗務員で 「【3】貨物列車」で仕事について書いています。)になるために名古屋市内にあった中部鉄道学園に入学中だった時期で、4か月半にわたる全寮制の学園生活を送っていました。土曜日の講義は半日だけで日曜日は休みでしたから、お召し列車と回送列車を撮影することができたというわけです。 以下、小難しい話になりますが、この植樹祭関連のお召し列車運転日当日に、車掌になるための運転法規などを学んでいる身にとってはたいへん興味深いことがありました。それは御料車1号編成をEF5861が後方から後押しする「推進運転」による回送列車が新豊田→北野桝塚間で運転されたことでした。列車の運転業務に従事されている方なら基本中の基本としてご承知のことですが、「推進運転」とは「最前部の運転室以外の場所で列車を運転すること」です。 このときは、東北本線の尾久~上野間の回送列車と同じ運転方式が用いられ、具体的に言うと、列車の先頭(1号編成の供奉車〈電源車460〉)…

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【985】 1979年全国植樹祭お召し列車(ED62・EF58)

本日、令和になって最初の全国植樹祭が愛知県で開催されました。愛知県での全国植樹祭開催は2度目で、前回は40年前の1979年5月でした。そのときは御料車1号編成によるお召し列車が、飯田線・東海道本線・岡多線で運転されました。そのとき撮影した画像とともに、運転経路などをたどってみようと思います。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 【1979年5月26日の御料車1号編成お召し列車】 豊橋―(お召)→三河槇原―(回送)→三河川合 三河川合-(回送)→本長篠-(お召)→豊橋 豊橋―(お召)→蒲郡―(回送)→名古屋 このときの天皇皇后両陛下は豊橋まで東海道新幹線をご利用されましたので、御料車1号編成によるお召し列車は豊橋始発でした。飯田線内の牽引機はED6215で、三河槇原から三河川合まで回送したわけは、折り返し運転で機関車を編成の反対側に連結しなおす(機回り)ためだと思われます。豊橋に向かう飯田線上りお召し列車(野田城~東条)※再掲画像 ED62によるお召し列車はこの日が唯一だったと思います。 折り返して本長篠を発車したお召し列車は豊橋に到着後、ED6215が切り離されて、編成の反対側にEF5861が連結され、進行方向が逆になってこの日の両陛下のご宿泊先最寄駅である蒲郡まで直通しました。 このあと蒲郡から御料車1号編成はEF5861とともに名古屋まで回送されました。名古屋に向かう東海道本線の回9003列車(蒲郡~三ヶ根) 回送列車なので編成はそのままで…

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【984】 お召し列車を牽いた機関車

昭和の時代には、毎年開催される全国植樹祭と国民体育大会のときに運転されるお召し列車の撮影を楽しみにされていた方は多かったと思います。実際にお召し列車の撮影には行けないまでも、後日になってお召し列車をけん引したきらびやかな装飾の面影を残す機関車を見たり、雑誌で当日の写真を見たときには、お召し列車牽引機には後光が射しているように思えたものです。 令和元年を迎え、まもなく一ヵ月が経とうとしていますが、来月、令和になってから初めての全国植樹祭が愛知県で催されます。愛知県での開催は2度目で、前回は1979年(昭和54年)5月でした。そのときは県内の飯田線・東海道本線・岡多線でお召し列車が運転されましたので、昭和の鉄道員としてはそのときのことを思い出します。そのときのことは後日書くことにして、今回は、昭和の時代にお召し列車をけん引した経歴を持つ機関車たちの画像をいくつかアップします。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 【EF64 77とDD51 820】 撮影1987年8月22日 稲沢機関区国鉄が分割民営化された年の夏、JR貨物の公開イベント時の撮影です。 左側のEF64 77は1986年に山梨県で催された「かいじ国体」のとき10月11日に原宿→甲府間、同10月14日に大月→原宿間でお召し列車をけん引したということです。(日付と区間はRail Magazine誌1997年6月号を参照しました。)このときが、国鉄最後のお召し列車になりましたが、私個人はこの年の秋は人生の岐路…

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【983】 稲沢にて ~DD51 890に寄せて~

先週、名古屋市内で知人と飲む機会があったので、その往路にJR東海道本線の稲沢駅に途中下車してみました。と言っても、多治見~美濃太田~岐阜経由というICカードによる大回り乗車中という事情があるので改札外には出ないで、次の上り普通列車が来るまでの15分の間に、旅客ホーム上から見える範囲に留置してあるJR貨物愛知機関区の機関車群を観察してみようと思っただけのことです。 その旅客ホーム付近には、いつもJR貨物の機関車が留置されているのですが、休車や車籍が抹消された機関車が多く含まれ、昨年度末までにまたそのうちの何両かが解体されてしまったので、そのあとにどんな車両たちが留置されているのか確認しておこうという目的でした。 この日、ホームから確認できた機関車は、米原方から大雑把にEF64 1047・DD51 890・EF64 1021・DD51 1146・DD51 1147・DD51 891・DE10 1557・DD51 1803・DD51 1156といったところでした。ほかにも留置車両がありましたが、手前に留置されている車両に遮られて番号が確認できませんでした。この中には国鉄時代からこの地で稼働していたDD51 890とDD51 891の2両がいます。   ↑DD51 890    ↑後ろがDD51 891(手前は岩見沢~鷲別から流れてきたDD51 1147) DD51 890とDD51 891のほかは、国鉄最末期以後(主にJR貨物時代)に各地から転属してきた機関車ばかりですが、それでも国…

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【978】 中央西線を走った車両27: その他の非営業列車

国鉄時代に中央西線で活躍した車両たちを振り返りながらここまでまいりましたが、今回がこのシリーズの最終回です。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 初めて振り子式車両381系電車で営業運転を行ったのが中央西線・篠ノ井線の特急しなの号でしたが、その381系を開発するにあたって試作されたのがクモハ591系でした。当初は3連接車体構造だったということですが、中央西線で試運転したころには、クモハ590+クモハ591の2車体に改造されていました。1973年2月3日 釜戸駅で このときの試運転は名古屋~釜戸間で行われ、土曜日、学校が終わってから釜戸まで列車に乗って友人と2人で出かけました。1973年2月3日 釜戸駅で 新聞に掲載されたので、このことを知りました。 中央西線で初めて見た特急色の電車でしたが、特急色の2両編成は、どことなく間抜けな感じもしました。 その試運転から半年後に新製された381系による営業運転が開始されました。営業運転開始後も中央西線では381系による高速試験が行われています。そのときのことは【643】中央西線を走った車両9:381系電車(4)の記事前半をご覧ください。 そのほか、国鉄時代に中央西線の検測車として入線していた意外な車両としては、交直両用のクモヤ494・495があります。1983年3月4日 坂下~田立 このほかにも、キヤ190・191とマヤ34も検測のために入線していました。「【57】国鉄時代の検測車」の記事で中央西…

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【977】 中央西線を走った車両26:  工場入出場のパートナー +α

国鉄時代に中央西線で活躍した車両たちを、引き続きご紹介してまいります。このシリーズで紹介する車両の範囲は「国鉄分割民営化まで」としていますが、その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。今回と次回は一般客扱いをしない回送列車などです。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 中央西線にあった車両基地のうち、電車を担当するのが神領電車区でした。瑞浪から中津川まで電化区間が延伸された1968年に開設され、中央西線のほかにも東海道本線など他線区で使用する車両を擁していました。 車両基地には営業用車両ではなく、黒子的存在として電車区内の入換作業や、車両工場への入出場のときの牽引等伴車として使用される事業用車も配置されているものです。まず神領電車区に配置されていた事業用車を中心に取り上げます。 <クモヤ90>クモヤ90804 1979年撮影日不明 倉本駅で後部から。 先頭←クハ86+モハ80+クハ85+クハ165+クモヤ90 クモヤ90は神領に2両配置され、神領電車区の80系と165系が長野工場で検査担当をしていたので、そのうち1両(クモヤ90804)が中央西線南木曽以北にある狭隘トンネル通過を考慮して低屋根化改造されていました。画像は、その長野工場の検査上がり車両を回送しているところだと思われます。クモヤ90804のパンタ側のお面は正方形に近くて違和感を覚えます。 <クモハ40>クモハ40800  1…

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