【956】 国鉄時代の車内放送

「60がらみのおじいさん」の事例や投書と思われる、よからぬ接客事例が載っていた列車掛養成課程で使ったテキストには、車内放送の注意点なども書いてありました。 テキストは中央鉄道学園で作成されたもので、つまり全国の国鉄の接客業務を行う職員を対象にしているものでした。しかるに国鉄で放送の質にばらつきがあったのは、現業機関での教育が行き届かなかったのか、職員の意識の問題でもあったのでしょう。 (京都鉄道博物館101系モックアップ) 画像の左端にある車内連絡用送受話器が放送用マイクロホンを兼ねていました。送受話器を右手で掴むと、親指の位置にあたる部分に押しボタンスイッチがあって、それを押している間だけ車内連絡用から車内放送用回路に切り替わる仕掛けでした。 そのテキストに書かれていた注意点など内容を少し抜粋してみます。 ◆始発駅発車前の車内放送での「おはようございます」のあいさつ放送は9時ごろまでとし、その後の放送は「ご案内いたします」とする。 ◆始発駅発車後の案内放送のときは、車掌長の名前(姓名)を明らかにすると、お客様に親しみと安心感を与える。 ◆車掌室の所在を放送する。 ◆停車駅、到着時刻、列車の編成などの案内放送をするときは「〇〇についてご案内いたします」の例により最初に見出しをつける。 と、いう具合です。この中で、乗務員が放送で「車掌長の名前(姓名)を明らかにすると、お客様に親しみと安心感を与える。」という書き方は、必ず名乗れとは言っていません。事実、昭和50年代の…

続きを読む

【955】 中央西線を走った車両15 :電気機関車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 国鉄時代の中央東西線は、ともにEF64(0番台)が大活躍した舞台で、中央西線では中津川電化の1968年から使用されていました。このとき配置された14両のうち新車は2両(29・30)だけで、あとは奥羽本線福島機関区からの転属車(1~12)でした。 EF641[稲一] 1973年10月 急行ちくま2号大阪行 中津川駅 東海道・山陽本線という表舞台で活躍したEF60・61・65・66や、碓氷峠のような特別な区間で活躍したEF62・63などと比べると、EF64はずいぶん地味な機関車だったと思いますし、そもそもD51が消えてからの中央西線自体が撮影者には見向きされにくい線区でした。 EF64が入線する前、1966年の中央西線の瑞浪電化時から1968年の中津川電化時まで、EF60が多治見まで入っていました。このEF60は甲府機関区から稲沢第二機関区へ転属してきたもので、1965年の中央東線松本電化時に吹田第二機関区から甲府機関区に転属して中央東線で活躍を始めたグループでした。勾配線区での制輪子による空気ブレーキのみの制動では問題があったとのことで、「中央西線瑞浪電化用」としてEF64(16~28)が甲府機関区に新製配置され、追い出されたEF6…

続きを読む

【954】 国鉄の悪弊は解消されたけれど・・・

先週は、いかにも当時の国鉄らしい例をご紹介しました。出札窓口や改札口、車内でも、今では信じられないようなことがあったことは確かで、これもよく言われる国鉄の汚点の一つだと思います。 私が高校生のころ、名古屋起点に紀伊半島を時計回りに一周したときのことです。名古屋始発の夜行急行紀州5号に乗るために、発車時刻の1時間近くも前に名古屋駅に行きました。冬休みに入ったばかりだったので出札窓口はたいへん混雑しており「関西・紀勢方面」の窓口の長い行列に並びました。あのころはコンコースの壁面に長距離切符の出札窓口が方面別にずらりと並んでいました。20分ほども並んだでしょうか。やっと順番が来たので、「発駅:名古屋市内、着駅:名古屋市内(経由:関西・紀勢・阪和・東海道)と書いた父の名前で発行された職員割引証を窓口に出すと、すぐに硬券が発券されたのはいいとしても、「あのねえ、こういう切符買うときは、前もって買わんといかん」と説教するような口調で怒られました。 「こういう切符」というのは、「一周する経路で、しかも職員割引という厄介な切符」という意味であったのでしょうか。それなら、こうして常備券が出てきていますので、結果としては問題なかったように思うのですが、あるいは国鉄職員の家族なのだから、他のお客様のご迷惑にならないように、窓口の空いた時間に前もって買っておけという意味だったのかもしれませんし、その両方だった可能性もあります。いずれにしても、そういう説教じみた応対を受けたことは45年経った今でも忘れることはあ…

続きを読む

【953】 中央西線を走った車両14 :ディーゼル機関車

中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 昭和40年代の中央西線では、主にSL時代からEL時代へのつなぎ役としてDD51が使用されました。 DD51723[稲一] 1973年5月5日 十二兼~野尻 主に客車列車用として使用され、中央西線全線電化完成の2年前の1971年4月には線内全部の定期客車列車がELまたはDL牽引になり、旅客列車の無煙化が達成されました。 1973年3月 落合川 その定期客車列車のDL化後も客車増結時にD51が補機として使用されることがあり、異動力による機関車牽引の客車列車を見ることがありました。 DD51750[稲一] 1973年5月13日 倉本~上松 また、臨時列車はD51牽引の場合とDD51の場合とがありました。当時はD51に来てほしいと思ったもので、DD51の画像は、D51撮影に行ったついでに撮影したようなものです。ずいぶんDD51に対して失礼な接し方だったわけですが、長い人生の中での関わりがどこにあるかわからないもので、例えば上の列車を牽いているDD51750など、この写真を撮影した7年後、私が国鉄の列車掛をしていた時代には、関西本線の貨物列車で自らがこの機関車のステップに乗って入換作業に従事するという深い付き合いになりま…

続きを読む

【952】 60歳は「おじいさん」?

【縞の風呂敷を振り分けに、あたふたと待合室へとびこんできた60がらみのおじいさん。額には玉のような汗を浮かべていた。おじいさんは、大きく深呼吸すると、やおら「〇〇行の汽車は何時ですか」と改札氏に尋ねた。肩まであろうかと思われるような長髪をかきあげた改札氏は、さもうるさそうに一べつをくれると、黙して語らず、手にしていた改札鋏をピョンと立てた。 「〇時」という答えを期待していたおじいさんは、何のことかわからず再び尋ねた。 しかしその返事は相変わらず無言のまま再び改札鋏をピョコンとたてたにすぎなかった。 なるほど、改札鋏の指したところを目で追っていくと、それは改札口の上の発車時刻表であった。でも、尋ねたおじいさんは、何のことか一向にわからず、けげんな顔で改札氏からの返事を待っている。】 この文章は、私が列車掛養成課程で教習を受けているときに使ったテキストの中から抜粋したもので、実例かどうかは書いてないですが、ありそうな話ではあります。 そのテキストは接客用のもので、改めて読み返すにつけ、国鉄の恥部をさらされている思いがします。あのころを知っておられる方だとニヤリとするか、忘れていた悪い思い出が蘇って、国鉄職員はカスばっかりだったと改めて怒りをあらわにされる方もあるかもしれません。 このテキストは接客に関することも書かれ、【763】 酔っ払い(>_<)で書いた酔っ払いへの応対事例?として私が以前書いた下敷きの内容も、そのまま掲載されていましたので、このテキストが出典元のよう…

続きを読む

【951】 中央西線を走った車両13 :気動車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。今回は気動車編です。 私が中央西線で国鉄時代に見た営業用の気動車を列挙してみます。 キハ17・18・20・25・26・28・35・40・48・51・52・55・57・58・65・90・91・180・181 キロ25・27・28・58・180 キサロ90・キサシ180 上の画像は使いまわしですが、1972年10月10日に中央西線の南木曽~十二兼間で撮影した気動車の画像です。キハ26(300番代)+キハ51+キハ51+キハ26(300番代)です。キハ26(300番代)はキロハ25の格下車、一見キハ17と見えるのは2個エンジンのキハ51です。画像は縮小しており判別できないと思いますが、元画像ではキハ17とは窓配置が異なり、戸袋窓の形状で判別できます。 ところで、キハ181系とキハ91系については過去に紹介していますので、 【114】 中央西線を走った車両1:181系気動車(1) 【115】 中央西線を走った車両2:181系気動車(2) 【117】 中央西線を走った車両3:181系気動車(3) 【119】 中央西線を走った車両4:181系気動車(4) 【780】 中央西線を走った車両10:キハ91系気動車 をご参照ください。 このほか、中央西線の気動車列車については、 【907】 下り急行「きそこま」~「…

続きを読む

【950】 165系電車時代の急行「赤倉」に関することいろいろ

先週は気動車時代の急行「赤倉」号が名古屋に着いた後、その編成を使用して中央西線を折り返した普通気動車列車について書きました。 その赤倉号は、1982年11月の上越新幹線開業に伴うダイヤ改正で165系電車化されました。 このダイヤ改正で急行「赤倉」の運転時刻は変更され、かなりスピードアップしましたが、それまで中央西線で特急に混じって運転されていた定期昼行急行列車「つがいけ」「きそ」は特急化されるなどして、「赤倉」は中央西線唯一の定期昼行急行列車になりました。気動車時代は上下列車とも後続の特急「しなの」に追い抜かれるダイヤでしたが、電車化で下りのみ長野まで追いつかれずに逃げ切れるようになりましたが、停車駅は増えてグリーン車は1両だけになり、中央西線内では、中部日本横断列車ということを除けば、特急の脇役的な色が濃くなりました。 ◆気動車時代の「赤倉」(1982.5)  名古屋10:03-長野14:42-新潟18:17 ◆電車化された「赤倉」(1982.11)  名古屋9:02-長野13:04-新潟16:23 脇役であっても、スピードアップとともに、遅れに遅れていた全車冷房化が達成されたことが最大の改善点だと思われました。 以下、【246】乗務した車両:165系電車(3)ほかで書いた内容と重複する部分があります。 赤倉編成は神領電車区で滞泊するため、上り「赤倉」が名古屋到着後、折り返し普通列車高蔵寺行となり、高蔵寺から再び折り返し神領へ回送されました。ダイヤ改正時に普通車掌だ…

続きを読む

【949】 中央西線を走った車両12 :蒸気機関車《後篇C12・C56》

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ <C12> C12は主に入換用でしたから、本線上での活躍は限られましたが、中央西線が全線電化された後も中津川と木曽福島両機関区に配置されていました。 中津川機関区所属のC12は、中津川の入換作業に従事していました。 C1269[中]  1973年7月 DL化される直前、中津川での入換作業 そのほか中津川機関区のC12は、恵那から分岐する明知線の貨物列車の仕業も受け持っていましたので、明知線の貨物列車が運転される日には、中津川~恵那間の中央西線本線上を回送されていました。 C1269[中](再掲画像)1972年・月日不明 美乃坂本~恵那 上り定期旅客列車最後部での回送。下りは貨物列車最後部で回送されていた時期もありましたが、回送は、単行機関車列車による時期もありました。最末期は上下列車ともに単行機関車列車のダイヤが引かれていました。 C1269[中] 1973年7月30日 美乃坂本~恵那 この写真を撮影した時点で、すでに中央西線は全線電化されD51は引退していましたから、この単行機関車列車は、木曽福島・上松間に運転されていた木曽福島機関区のC12による単行機関車列車とともに、線内に残された希少な蒸機列車でしたが…

続きを読む

【948】 思い出の乗務列車67:中央西線普通列車531D&522D

新年から毎木曜日に「中央西線を走った車両たち」について、「国鉄分割民営化まで」のことを書き始めましたので、今回は表題の中央西線の普通列車531Dと522Dに加えて、中央西線に走っていた昼行長距離急行「赤倉」号のことも併せて書いていこうと思います。 1982年9月24日 下り急行「赤倉」落合川~坂下 「赤倉」号は名古屋と新潟を長野経由で直通する気動車急行として1962年にデビューしています。私が車掌になったのは1981年でしたが、そのころは新潟から名古屋に着いた赤倉号2802Dの編成は、すぐ普通列車531Dとして多治見に折り返し、多治見から太多線内を回送され美濃太田機関区で滞泊しました。翌朝は美濃太田始発多治見経由名古屋行普通列車522Dで名古屋。折り返して赤倉号2801Dになって新潟に戻っていました。 この普通列車531Dと522Dの名古屋~多治見間は専務車掌と普通車掌との2人で乗務していました。 急行「赤倉」の所定編成は新潟運転所のキハ58(8両)とキロ28(2両)からなる10両編成でした。 1982年9月29日 下り急行「赤倉」落合川(後方から撮影) このうち指定席はキロ2両とキハ2両で、この4両だけが冷房車で、自由席6両は非冷房でした。2両のグリーン車キロ28のうち1両は自車を含めて3両まで給電可能な4VK冷房電源用エンジンと発電機を搭載した2000番代の車両が使用されて、2両の普通車指定席のキハ58に冷房電源を供給していました。自由席のキハ58は基本的に非冷…

続きを読む

【947】 中央西線を走った車両11 :蒸気機関車《前篇:D51》

【「中央西線を走った車両」シリーズ記事再開にあたって】 昨年は、子供のころの中央西線との関わりについて書きましたが、カメラを持ち始めたのが中学生からでしたので、それ以前に見たり乗ったりした車両を画像として記録することはできませんでした。残っているネガフィルムは1971年以降ですが、それでもそれから45年以上経過し、国鉄が分割民営化されてからでも30年以上経過していますので、改めて見ると懐かしいと思うだけでなく、そのころの日常が今となっては大袈裟に言えば異次元空間だなと思うことさえあります。「中央西線を走った車両」のシリーズ記事は、これまで1~5(181系DC)・6~9(381系EC)・10(91系DC)で書いてまいりましたので、その続番で継続する形をとりますが、中央西線を走った車両は実に多いので、これまでよりサラッと流す内容として、その代わり中高生時代から国鉄在職中までの個人的な思い出なども織り込もうと思います。また、「乗務した車両」のシリーズ記事で取り上げた車種については、その当該記事の中で中央西線での画像と使用列車などをすでに書いていますので、原則的に新たな記事は起こさず省略とさせていただき、該当記事へのリンクを貼ることにします。また、過去に掲載した画像をいくつか使いまわしで使用しますのでご承知ください。 今回のシリーズで紹介する車両の範囲は「国鉄分割民営化まで」としますが、その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.…

続きを読む

【945】 2018年中の少ない鉄分から昔を回顧(3):急行「中山道トレイン」

前回に引き続き、この1年間に地元で撮影した画像をもとに、それより前に時代に遡った関連画像で、時の流れを感じていただく企画ですが、最後は地元中央西線の木曽方面を対象とした行楽臨時列車に絞って書きました。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ このところ毎年JR東海では秋に急行「中山道トレイン」が運転されています。 今年は383系電車を使用して6日間運転されました。 過去には途中駅で長時間停車する「木曽路クルーズ」という臨時急行が、やはり383系で運転されたことがありましたが、「中山道トレイン」を名乗る急行は、昨年までの3年間373系が使用されていました。 その前、2013・2014年には371系が使用されて、これはかなり注目されました。 2011・2012年には、117系の改装車「トレイン117」が使用され、運転区間は短く南木曽までの運転で、列車種別が快速でした。2012年は「中山道トレイン」を名乗りましたが、2011年に運転されたときの列車名は「宿場町トレイン」で、その年だけは車体にキノコやモミジなどがラッピングされ鮮やかな装いでした。 現在の「中山道トレイン」のルーツは、この列車か、急行ということを考慮すれば前述の383系急行「木曽路クルーズ」ということになりましょうか。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 木曽路への行楽用臨時快速列車(運転区間が中京圏から塩尻までで完結する列車)は、秋に限らず観光シーズンには国鉄時…

続きを読む

【944】 2018年中の少ない鉄分から昔を回顧(2):坂の上下・田んぼアート・車両基地公開イベント

先週に引き続き、この1年間に地元で撮影した画像をアップします。いろんなところで時が流れたことを実感します。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ◆坂上行と坂下行 終点を坂下とする列車は中津川始発で1日に数本存在しますが、坂上行はというと、高山始発の下り終列車1本があるだけです。 この坂上行の画像は岐阜駅で撮影しました。最近は自然災害が多いですが、今年は高山本線でも長期間にわたって不通区間が何カ所も発生し、猪谷行が坂上行に変更されていたのでした。 画像の坂下行のほうも災害がらみの列車で、4年前の2014年に南木曽~十二兼間の土石流による橋梁流失と土砂流入によって不通になったときに中津川駅で撮影したものです。このとき列車は坂下と野尻で、それぞれ折り返し運転となり、両駅間に代行バスが運転されました。 坂上と坂下は、ともにJR東海管内の岐阜県内に所在しますが、坂上は高山本線の駅であるのに対し、坂下は中央西線の駅で、両者はまったく関係がなく離れた位置関係にあります。 画像の車両も、両者大変良く似たJR東海の車両ですが、坂上行は気動車であるのに対し、坂下行は電車ですから、まったくの別物です。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ◆明知鉄道 今年はNHK連続テレビ小説「半分、青い。」が放映されたことによって、岐阜県東濃地方が今までになく注目されました。そういう私はテレビをほとんど見ない人なので、そのドラマそのものは視聴していなかった…

続きを読む

【943】 字幕

先週の記事(【941】思い出の乗務列車54:武豊線931D名古屋行)の終わりに、国鉄分割民営化を前提にした61.11ダイヤ改正で、私が在籍していた車掌区の普通車掌行路では、気動車の貫通ホロやホース・ジャンパ等の連結切り離し作業が新たに加わったと書きましたが、このダイヤ改正では、そのほかにも、いくつか新たにすべき仕事が増えました。 そのひとつに普通列車の行先表示幕の表示がありました。それまで名古屋鉄道管理局管内所属の普通列車用車両で、車掌自らが操作して表示していたのは乗務員室で一括操作が可能な117系電車だけでした。(特急用車両まで含めれば、381系しなの号の側面字幕操作も従来から車掌が行っていました。) それまで 103系・113系・165系電車と気動車はサボと呼ばれる車両側面に行先(区間)を表示した板を枠に差し込んで表示する方式で、このサボ交換作業は業務委託された関連会社の社員が行い、車掌はその作業のためにホーム反対側のドアを開閉したり、その表示の確認をするだけでしたが、このダイヤ改正時に、大垣~東京間の夜行列車と急行以上の優等列車を除きサボの使用が全廃されました。代わりの行先表示方法としては、今まで「急行」表示以外は無表示になっていて使用していなかった前頭部の字幕(方向幕)によるものでした。このことで、側面からは列車の行先がわからない状態になってしまいました。(名古屋鉄道管理局管内での話であります。鉄道管理局によっては前頭字幕を古くから行先表示として使うことによって、側面のサボを廃止してい…

続きを読む

【942】 2018年中の少ない鉄分から昔を回顧(1):愛環・木曽あずさ

2018年もあとわずかになりました。今年のまとめを書くにしても、このところめっきり鉄道旅が減って、今年は春に青春18きっぷを使って、飯山線の雪見(【863】飯山線)と津山(【871】「津山まなびの鉄道館」での再会:DE50 1)へ行ったくらいのものでした。鉄道で遠出をするときには、よくお世話になった新幹線ですが、振り返ってみますと2015年に九州まで往復したのが最後で、新幹線には以後3年間乗る機会がなかったことからも、近年は遠くに出かけていないことがわかります。その九州行のときに、最後まで未乗で残ったままになっていた線区に乗ったことによって、「現在乗ることができる旧国鉄線」は全部乗りつくしたものですから、「【647】九州乗り物乗りある記(前篇)」の末尾に「乗るべき線区や乗るべき列車がなくなりつつある現状から考えるに、一人で泊まり込みの旅に出ることなど、もうないようにも思います。」と書いたのですが、今のところ、そのとおりになっています。出かけたくても出られないのはストレスになりますが、見たい列車乗りたい列車がなくなってしまい、遠くに「行く用事」がなくなっただけであって、仕事や付き合いで「遠くに行かなければならない」、または「行かされる用事」がないことは、むしろありがたいことでもあるのです。かつてはそんな「行かされる」ような機会にも、ちゃんとカメラを携えて撮るべき車両を撮り、乗るべき列車に乗ったりしたものです。そういう気にさせてくれる対象物がすっかりなくなりました。 そして、地元を走る列車を見渡して…

続きを読む

【941】 思い出の乗務列車66:武豊線931D名古屋行

私が武豊線で乗務していた昭和50年代、名古屋第一機関区には12両のキハ35形式が配置されており、3両編成2本と4両編成1本に分けて運用されていました。武豊線では朝夕に急行編成が入り、キハ35のほうは、朝だけ3両編成を2本連結して6両編成を生み出して、武豊~名古屋~武豊~大府と、武豊線内を1往復半しました。 1往復したあとの武豊発名古屋行が931Dで、朝の通勤通学輸送が一段落した8時41分に6両で武豊を発車して、途中の大府で後寄り3両を切り離して、前寄り3両だけが名古屋まで直通し、機関区へ入庫して整備を受けました。大府で切り離された3両はそのあとすぐに折返しの武豊行に変わり、引き続き4両編成と交互に日中の武豊線内運用に用いられました。 名古屋に10時前に着く列車というのは通勤通学時間帯のような混雑はないものの、休日には買い物などで名古屋に出る利用者が多く、車内で乗車券を発行する枚数がけっこう多い列車でした。 車掌は、武豊から、切り離しがある大府まで2人乗務で、大府から先は1人乗務になり、それで名古屋に着くと乗務終了。大府で降りた車掌は、切り離された3両編成で折り返す行路になっていました。 大府での切り離し作業の関係上、名古屋へ直通する車掌は始発の武豊から3両目の名古屋行車両の最後部に乗務し、大府で折り返す車掌は、その直後となる4両目の乗務員室に乗り込み、向かい合う運転室に携行品を置いて、ちょうど中間部で相対する乗務員室を拠点にして仕事をしました。2人の車掌は担務指定がされ、名古屋まで乗務する…

続きを読む

【939】 使用停止の車内トイレ

垂れ流し式の列車のトイレには「停車中は使用しないでください」という注意書きがドアに書かれていたのをご記憶の方は多いと思います。(画像は、 碓氷峠鉄道文化むらの保存車) 停車中の便所使用が制限されていることは、子どものころから知っていましたが、走行中の使用を制限する例を初めて知ったのは、高校生のときでした。 それは、初めて九州へ行った時の、下り急行「桜島・高千穂」でのことで、朝の4時前、下関到着前におはよう放送が入りました。その中では、「下関を出ますと、すぐに関門海底トンネルに入ります。トンネル内では衛生保持のために、便所・洗面所の使用を一時お断りいたします。およそ5分くらいですので、少々御辛抱願います。」ということでした。なるほどとわかる話ではあります。 ちなみに前夜のお休み放送のときには、転落した方も「おおぜい」あるからデッキのドアは必ず閉めるようにという内容の放送も入り、いずれも今の列車では考えられない環境で列車が走っていたなあと思うわけです。 (画像は大井川鐵道の客車であり、桜島・高千穂号とは無関係です。) 私も、以前は撮り鉄らしきこともしていましたから、知らない間に被害にあっていたかもしれません。 画像の電車は長野電鉄の電車で、トイレがありませんので安全ですが、国鉄の列車をこんな角度から撮影したら、ぶっかけられることを覚悟する必要アリです。たいてい写真を撮ったら、後追い写真を撮るために撮影者は列車の前方を向きますから、背後からやられるのではないでしょうか。高速だと霧状に…

続きを読む

【937】 列車のトイレと乗務員

ご承知のように、国鉄時代の列車は、いわゆる垂れ流し式のトイレが当たり前でした。少しずつ循環式のタンクを装備して車両基地で処理する方式に改良されつつありましたが、冷房化同様、国鉄分割民営化の時点でも垂れ流し式は残存していました。当然、これは昔から問題となっていて、とくに保線区など施設関係の職場環境問題でもありましたので、組合も改善要求を出していました。画像は大井川鐵道の旧形客車です。利用は制限されていますが、設備的には今もそのまま残っているようですね。 「臭いものにはフタ」を地で行くようなことですが、国鉄時代からトイレを使用禁止にして施錠していた例がありました。 そこは、私が普通車掌時代に乗務していた岡多線(現愛知環状鉄道の一部)でした。私が乗務していたころは113系が使用されており、クハには一部を除き垂れ流しトイレが装備されていたわけですが、岡崎駅に回送された車両には例外なくサボ交換などを請け負う業託社員の手によって車内トイレのドアを客車カギで施錠されて「使用禁止」の札をドアノブにぶら下げて岡多線内を運用されていました。こうすると便所使用灯が点灯しますので、人為的に使用中の状態にしてしまう結果となるわけです。岡多線は比較的新しい路線でしたから、岡崎駅構内に踏切が1つある以外すべての道路が立体交差で、特に市街地区間のほとんどは高架区間でした。高架区間で上から黄害を撒き散らすのはやめてくれという要望があったのだろうと思われます。施錠しないまでも、車内トイレを使用制限する区間は大都市などにありま…

続きを読む

【935】 ノリホ

ノリホとは列車乗車人員報告書のことです。 国鉄時代は大きな駅のホームの柱に、このような「のりほ」「ノリホ入れ」などと書かれたポスト状の挿入口がある小さな箱や、吸い殻入れと間違えそうな空き缶が括り付けてある光景をよく目にしました。最近はあまり鉄道で出かけませんので今でもあるのかどうか知りませんが、下の画像は2014年にJR東日本の某駅ホームで見かけたものです。 近付いてみましょう。 子供のころから「ノリホ」ってなんだろうと思っていた私は、糊に関係があるものかと思っていましたが、ぜんぜん違いました。「乗り報」だったんですね。 乗車人員が、普通車自由席・普通車指定席・グリーン車指定席の順に書かれています。この駅で列車ごとに集約しているのでしょう。乗務中に車掌は乗客数をカウントして、ノリホ用紙に記入して指定された駅で卸します。複数乗務の列車では客扱担務の車掌が記入します。優等列車では車掌長が取りまとめて記入しますので、専務車掌は自分が担当する車両の乗客数を集計して、ノリホ取り卸し指定駅到着前までに車掌長に報告します。列車乗車人員報告を求められる区間は、全区間ではなく、あらかじめ決められていました。また報告する方法も、ノリホ用紙によって駅に報告する区間と、車掌区へ帰区後に備付用紙に車掌が直接記入する区間とがありました。報告する数値は該当区間の最高乗車人員です。 ノリホ用紙によって駅に報告する場合、ホームに出場している駅員がいれば直接渡しますが、列車の停車位置に駅員がいるとは限りませんので、…

続きを読む

【933】 ストライキと給料カット

欠乗は、恐ろしいことでしたが、私は意図的に指定された列車の乗務をしなかったことがありました。 そんなことがあるのかと思われるかもしれませんが、国鉄時代を思い出してください。 そう、ストライキのときです。(この画像は、1974年(昭和49年)10月の撮影で、私が国鉄に入る前のものです。) 私は列車掛として貨物列車に乗務していたころのことでした。この日は、稲沢から名古屋経由で関西本線富田まで便乗。富田から8397列車で四日市。折返し1264列車で稲沢。再び東海道本線便乗で名古屋。271列車で笹島。仮眠したあと便乗で稲沢に戻る行路に乗務予定でした。 すでに組合からストライキ指令書を受け取っており、まず、ストライキと関係なく(またはストライキを見込んだ荷主側の都合?)富田からの8397列車が運休との指令が当局側から出たので、出勤時間が変更され遅くなっています。(540M便乗のところ、542Mに変更)出勤時刻には車掌区へ出向くものの、出勤簿に印鑑は押さず直接分会事務室へ行って勤務時間終了までの予定で、その所在車掌区の分会闘争本部の支配下に入りました。ここからがストライキ参加となります。職場での勢力は国労が多数派でしたから、列車掛が出勤していない貨物列車が多かったはずで、ストライキをしていない鉄労の列車掛の列車も、たぶんその多くは、機関士側のストライキで運転できない状況になって、運転休止となったものと思われます。 この日は夕方になって中央の労使交渉で折り合いがついたと見え、ストライキ中止…

続きを読む

【931】 欠乗

先週は、列車が遅れた話をしましたが、車掌のほうが列車に間に合わないこともあります。 乗務員は「遅刻」という言葉を使いませんでした。出勤に遅れたら「出勤遅延」であり、車両のいる場所へ出場するのが遅れれば「出場遅延」であり、結果として乗務すべき列車に乗れなければ「欠乗」と言いました。常に時刻を気にしなくてはならない仕事ですから、それらはすべて「事故」として取り扱われます。 欠乗は乗務員では最も恥ずべきこととされていました。乗務員個人のミスによる原因であれば、どのような場合でも決められた時刻に間に合わなかった事実に対しては厳しい処分があり、その中のひとつである「日勤教育」という懲罰は見せしめ的要素もあって、翌年の昇給はカットされました。 国鉄の乗務員を11年やってきて、転職した先で集合時刻ギリギリに現れる人や、たとえ1~2分であっても遅れてくる人が咎められないのを見ていると、一般社会では「遅刻」に対して寛大なのだと感じました。それが普通なのかもしれませんが、いつでも時刻を気にしながら生きてきた私は、自然と時計は秒単位まで合わせ、風呂に入るときと水仕事以外は、寝床でも腕時計を手放せない習慣が身についてしまって、退職後30年しても直りませんでした。時刻がわからないと不安でたまらないのは、今でも変わりません。そして「欠乗」の夢を車掌は皆見ますし、不思議と退職後でも見ると言います。夢の中では、決まって目の前に見えている列車に追いつこうと走るのに、列車には追いつけず、目が覚めるというものです。 私は、…

続きを読む

ブログ内ラベルリスト