【929】 超過勤務手当

当然のことですが、乗務員は終点についたら仕事はそれで完結です。車内巡回が中途半端で、無人駅から乗ったお客さんに切符が書ききれなくても、壊れた冷房がなおっていなくても、乗客と揉めごとがあっても残業があるわけではありません。のちに国鉄を退職して自分の山のよう残った仕事を残業で片付けているときや、朝出勤して前日の取引先とのトラブルの後始末のしかたを考えているときに、後腐れがない仕事とはいいもんだと思ったものです。まあ裏を返せば、乗務員の仕事は、締切日時が絶対に延びない中で完結させるため、後回しとか締切の延長はないわけですから、それはそれで辛い面があるにはあるのですが…。(画像は別に直接本文と関連はありません。) 乗務員に残業はないと書きましたが、列車が遅れれば超過勤務手当は出ます。こんな様式の列車遅延証明書で乗務終了後車掌区に提出しました。 遅れは1か月単位で積算し、30分を境として1時間の超過勤務手当がつくか、手当はナシか運命の分かれ道になります。月初めに25分くらい遅れて、その分の列車遅延報告を出してあれば、月末までにあと数分遅れないかといつも気になりますから、そういう人は遅れろ遅れろと念じますが、なかなかそうはなりません。短時間で折り返す場合は勤務時間が継続しているので、多少遅れても全く勤務時間に関係しません。ただ折り返し駅で駆け足で乗務位置を運転士と入れ替わるわけですから、何の得にもなりません。列車が終点に着いたら寝るだけとか、行路の最後の列車など、勤務時間が連続しない列車でないと超過勤…

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【927】 機関紙「つばめ」に見る国鉄の終末期

◆タイトルに「つばめ」と書きましたが列車の話とはまったく関係がありません。国鉄では、職員向けとして本社広報部の編集による「つばめ」というタブロイド判の機関紙が発行されていました。 たしか週刊だったと思います。職場の個々のロッカーに配られましたが、それを熱心に読みふける機会があったとすれば、給与改定があったときに掲載される新しい給料表くらいではなかったかという印象で、多くはろくに読まれもせずにゴミ箱行きになったのではないかと思います。 昭和51年5月1日付の「つばめ」です。昭和51年度の全国鉄レクリエーション各種大会の日程が決まったこと、そして折しも第400号ということで、「国鉄一家という合言葉で」という朝日新聞OBからの寄稿が第一面を飾っています。 朝日新聞OB氏の記事には「新聞に「国鉄一家」という言葉を多分に批判めいた意味で使っているが、もっともっと自分たちの職場である国鉄を愛してほしいと思う気持ちの人たちが「国鉄一家」という言葉で結びあうことは、誰にはばかる必要もない」と書かれていました。臨時雇用員だった私は、実はこの日に晴れて準職員を拝命し、新規採用職員入社式に出席しました。 そして、その第二面には、当時の交通博物館にC57 135が静態保存されることと、それまで岡崎~北野桝塚間で貨物輸送だけを行っていた国鉄岡多線の北野桝塚~新豊田が延長開業し、岡崎~新豊田間で旅客営業が開始されたことが報じられています。 私が国鉄に就職したのは、蒸気機関車が廃止された直後であり、まだ新線が…

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【925】 国鉄が運んだ新聞・雑誌

鉄道趣味はほんとうに幅広い分野に広がっているもので、鉄道グッズの収集をしている方も多いことでしょう。対象物はさまざまですが、車両に関係するものが人気でしょう。収集の対象にならず、あまり集めたがらない不人気なものであっても、年月が過ぎ去っていくと別の意味での郷愁を感じさせることはあります。国鉄という大組織が解体されて30年以上も過ぎると、国鉄に関する文字が入っているだけで、特に列車や車両にまったく関係のないものでも、「国鉄があったことを忘れるんじゃないぞ」と教えてくれているようにも思えてきます。このところ、そんな収集物をご覧いただいております。 *********************** 私は国鉄に就職してすぐに荷物列車の車内での荷扱業務に従事しました。荷物には、一般の手小荷物のほかに、新聞もありました。 下の画像を見ていただくと「国鉄名局特別扱承認新聞紙」とあります。 (「中日新聞」昭和60年7月31日朝刊の例) そして、こういう特別扱承認新聞紙の輸送は、積載方や輸送方が一般の荷物より優先され、輸送する列車があらかじめ指定されていました。 上の例は、東北本線の103列車(急行「北星」)に連結された荷物車に積み込まれる朝刊包数と行先明細の一部です。(昭和48年10月の通達より) また、定期刊行の雑誌も列車で輸送されていて、下の画像のように、「国鉄東局特別扱承認雑誌」の表示がされています。国鉄時代には貨物以外に「荷物輸送」があり、こうした出版物が列車によって全国に…

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【923】 ~昭和57年秋~ 父の遺品「レールの文鎮」そして・・・

私の父の遺品のなかに、レール文鎮があります。 1982年(昭和57年)は名古屋から建設されてきた中央本線が中津川まで開通して80周年を迎えた年でした。 裏面には父が長年勤務した車掌区の名が入っています。当時の車掌区長の言葉が綴られた手紙もいっしょに箱に収められていました。 この年には多治見~中津川間開通80周年記念乗車券も発売されています。 記念乗車券には、開通日が明治35年12月21日とされていますが、冒頭の画像にあるレールの文鎮には57.11.20のゴム印で日付が入っています。変ですが、ほんとうの開業80年の日は、たぶん12月21日で、レール文鎮の日付は単に配られた日を表しているだけなのだと想像します。 この年11月20日と、その翌21日には中津川駅で記念行事が行われたことが、翌21日の中日新聞記事で報道されています。レール文鎮もこの記念行事に合わせて配布されたのでしょう。 (新聞記事の内容掲載について許可等受けていませんので見出しだけがわかる状態の大きさと範囲の画像としてあります。) 本来12月21日にすべき記念行事を11月20日に早めた理由については新聞記事に触れられていませんでしたが、中津川開業の日は明治35年12月21日であると書かれていました。なぜ記念行事を11月に行ったのか、その背景を探ると、この1982年11月15日にダイヤ改正があり上越新幹線が開業していました。ダイヤ改正後最初の土・日曜が11月20・21日に当たりますから、国鉄としてはダイヤ改正のPRも兼…

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【921】 傾いていく国鉄~慰安会ほか

以前、国鉄時代の職場の親睦会の話を書いたことがありますが、そこで公共企業体に職員の慰安旅行などありませんでしたと書きました。しかし福利厚生事業として、私が就職したころには年に1度、夏に家族も参加できる「慰安会」というものがありました。ホールを一定期間貸し切って、芸能ショーを観るもので、その入場券が職員1人につき2枚ずつ配られるというものでした。しかし出演者は有名どころではなく、まだ20代だった私にはまったく興味をそそられるものではありませんでした。 職場に割り当てられる入場券の枚数が、日別・午前午後別に発表され、希望する日に自分の名前を書くのですが、土休日はいつも希望者が多く抽選になり、逆に平日は券が余るようなこともありました。しかし年配の方だと、家族が休みの休日に行きたいという人はおりましたので、「行かないのなら〇日の日曜日に申し込んで、当たったらわしにくれんか。」という方もあって、たいてい私はそういう方にお譲りしていました。 在職中に1度だけ参加したことがあって、そのときの入場券半券がこれです。 昭和54年8月24日  この日は、中部鉄道学園で4か月半にわたる列車掛養成を受けていた期間の最終日で、午前中に修了式がありました。午後はフリーでしたが、翌週からは列車掛見習として貨物専門の車掌区に転勤することになっていましたので、それまで所属していた車掌区に、同じ立場の者と2人で立ち寄って、転勤の挨拶をし、20日に出ていた給料を受け取り、貸与されていた物品を返納してきました。ロッカーの…

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【919】 駅弁掛紙に見る国鉄のキャンペーンなどのロゴマーク:後篇

先週に引き続いて、国鉄のPRや記念のロゴマークが入った駅弁の掛紙をアップします。 *********************** 「ひかりました こだましました15年」 東海道新幹線の開業15周年。「のぞみ」で就役した300系が過去の車両になって久しいですが、「のぞみ」は国鉄時代にはなくて、「ひかり」が東海道・山陽新幹線の主役でした。 1979年10月9日 名古屋駅 幕の内こだま この駅弁には公私ともによくお世話になりました。この日は約1ヵ月続いた列車掛見習乗務の最終日でした。 「【638】貨車解結通知書の記載事項と編成を照合してみた」と「【640】思い出の乗務列車52:関西本線290列車(八田駅の入換)」で書いた関西本線290列車で、いくつもの駅で慣れない入換作業に従事して、相当に疲れて昼過ぎに仕事が終わり寮に帰りました。翌日は休みでしたから、夕方まで寮で昼寝をしてから家に帰りましたが、家に帰れば両親は夕飯を終えている時間帯でしたし、田舎の駅から家までの帰り道に食べ物を調達できる店などありませんので、家に帰ってからの遅い夕飯用として中央西線の列車に乗り換える合間に買ったものです。 ******************** 「買っておトクなQきっぷSきっぷ」 1985年4月12日 西鹿児島駅「とんこつ弁当」 国鉄の企画乗車券を宣伝しています。ゴム印のようです。印刷でないのはローカルっぽくていいです。年の表示はありませんが、1985年に現地で買ったものです…

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【917】 駅弁掛紙に見る国鉄のキャンペーンなどのロゴマーク:前篇

鉄道趣味はほんとうに幅広い分野に広がっているもので、鉄道グッズの収集をしている方も多いことでしょう。対象物はさまざまですが、人があまり集めたがらない不人気なものであっても、年月が過ぎ去っていくことによって、郷愁を感じさせることもあります。国鉄という大組織が解体されて30年以上も過ぎると、国鉄に関する文字が入っているだけで、特に列車や車両にまったく関係のないものでも、「国鉄があったことを忘れるんじゃないぞ」と教えてくれているようにも思えてきます。そんな収集物をこれからご覧いただきます。 今回は、駅弁の掛紙に印刷された国鉄のキャンペーンなどのロゴマークを集めてみました。 *********************** 「DISCOVER JAPAN」 (1976年)4月24日 新宮駅「幕の内御弁当」500円 「DISCOVER JAPAN」は1970年から始まったキャンペーンでした。キャンペーン期間中に私は蒸気機関車の撮影旅などで、いちばんよく出かけていたころなので、駅のポスターやスタンプなどいたるところでこのロゴを見ました。 この駅弁の掛紙、年が入っていませんが日付が4月26日となっており、その日に新宮へ旅行に出た記憶もなく、乗務した記録もありません。このキャンペーンはこの1976年の12月で終了しているようですので、1976年4月であれば見習い乗務中の時期で、しかも乗務記録を取っていなかったので、その見習乗務中に買ったものだとすれば辻褄があいます。 *******…

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【915】 国鉄時代の迂回運転について

先週は西日本豪雨で不通になった山陽本線区間を避けて迂回運転されている貨物列車について、思うことを書きましたが、山陽本線の全線復旧がかなり前倒しで9月30日と発表され、あと少しで元どおりの運行に戻れそうです。被災直後の悲惨な状況を思い返しますと、短期間でここまでたどり着けたことに対して、関係者のみなさんのご努力をたたえたいと思います。 JRではさまざまな輸送障害に備えて運転・営業・施設面などでそれぞれにマニュアル的なものを作成していると思いますが、国鉄でも、災害が起きた場合にそなえて、列車ごとや区間ごとに細かなマニュアルが事前に定められ、必要の都度通達によって施行されることになっていました。乗務員であった私どもにも乗務に関係する列車、関係する区間について抜粋した内容が周知されていました。そこで今回は、国鉄で不通区間が発生した場合の迂回運転について、当時の達示を私の知り得る範囲で振り返ってみたいと思います。あくまでも知りうる範囲ですから、局所的であり、時代は1980年半ば、55.10ダイヤ改正時の主に中部地方に関係する特急・急行列車に関する内容となります。あらかじめお断りしておきますが、元になる資料は、現場にいた車掌が乗務するにあたって必要なことだけを抜粋して知らされた内容ですので中途半端なことばかりになります。ここに書くこと以上の詳細な内容について、私には知識がありませんので、ご質問にもお答え出来かねますのでご容赦ください。 ◆特急「金星」(21M・22M)について 特急「金星」は名古…

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【913】 JR貨物の迂回運転に思うこと

この7月に西日本の広い範囲を襲った豪雨では甚大な被害が発生し、その後も21号台風、北海道の地震が続きました。被災された方や、関係者の方には心からお見舞い申し上げます。 9月に入りましたが、今も山陽本線には不通区間があります。この不通区間を迂回する目的で、伯備線~山陰本線~山口線を経由する貨物列車が8月28日の名古屋貨物ターミナル発の列車から1日1往復運転されるようになったという報道を耳にしました。この列車に使用されている機関車は、岡山貨物ターミナルから米子までが愛知機関区のEF64で、米子~幡生操車場までが愛知機関区のDD51だそうです。いろんな情報を総合すると、今回、愛知機関区からDD51の857・1802・1804が赴き、その任に当たっているようです。 このうち、1804号機は、8年前に中央西線に入線した機関車で、その日のことは【105】鉄分補給2010.11.27:中央西線へ入線したDD51の記事で書きました。(その記事上にナンバーがわかる画像や表現はありません。また、上の画像は6年前に関西本線の四日市駅で撮影したものです。) 上の画像は、EF65 1091 (新)+DD51 1804(愛)のコンビで、そのとき(2010年11月27日)中央西線の大曽根~新守山間で撮影しています。 上の画像は春日井駅で切り離されたDD51 1804です。今ではワム80000の姿はなくなり、後ろに見えている桜の木は無残にも切り倒され、このあたりには橋上駅舎が覆いかぶさっています。 迂回区間…

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【911】 昭和40年代:中央西線の気動車普通列車

時刻表の1956年(昭和31年)12月号復刻版を見ると、もう中央西線の名古屋~中津川間に普通気動車列車が運転されていることがわかる。おそらくこのころは多治見機関区に配置されたキハ17系が使用されていたのだろう。そんな古い写真は手元にはないので、今回アップする画像はずっとあとの1971年以降に撮影したものであることをお断りしておく。こちらは中津川で撮影 「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション7」に収録されている1968年3月31日現在の国鉄車両配置表で確認すると、多治見機関区所属の気動車の全容は キハ52-7両 キハ35-10両 キハ28-3両 キハ25-4両 キハ18-3両 キハ17-13両 小学生になった1964年には日中の急行はすべて気動車列車になっていたし、普通気動車列車はさらに増発されて、運転区間も延長されて名古屋発明科行という列車があった。 この明科行は、午前中の下り列車で、買い物などに出かけるのに便利な時間帯の列車であったから、美乃坂本から中津川までの1区間だけではあったが、母とよく乗った。母も私も明科がどこにあるのかわからず、読み方も知らなかったから「アケシナ行のジーゼル」と言っていた。(正しくはアカシナ行のディーゼル) その列車は4両編成で、中間に必ず運転台がないキハ18が1両連結されていた。 これも当時の画像がないので、1973年12月に後藤寺線で撮影した気動車列車の画像で代用するが、3両編成の列車の中間車をよく見れば運転室がないキハ18である…

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【909】 塩尻発武豊行?

このまえ、昭和40年代の中央西線で運転されていた下り長野行気動車急行「きそこま」(→「きそ1号」)について書いたが、この列車が多治見始発だったころに塩尻で切り離された多治見機関区(→美濃太田機関区)所属の2両のキハ28について、話を続ける。 塩尻で「きそこま」から切り離された2両のキハ28は、日中に普通列車名古屋行(注釈付きの「武豊」行…後述)として折り返してきた。 その折り返しとなる上り普通列車が美乃坂本を通るのは12時台で、1968年10月の中津川電化前は840D、それ以後は828Dという列車番号が付されていた。当初は美乃坂本到着時点では一般形気動車が増結されていた記憶だが、のちに増結がなくなってたいへん混みあう列車になった。しかしこの列車では必ず急行形キハ28に乗れた。日中だったので乗ったり見たりする機会も多かったから、キハ28 14というナンバーの車両の窓下にあるテーブル(裏にセンヌキがついている)の柄が他車と違って、1㎝くらいの格子模様だったことを覚えている。(画像は一般的な柄) 改めて「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション7」掲載の1968年3月31日現在の国鉄車両配置表で確認すると、多治見機関区所属の気動車のほとんどが一般形と通勤形で、急行形はキハ28(14・76・159)が3両だけとなっていることから、キハ28は急行「きそこま」編成専用だったものと思われる。多治見機関区は、1959年12月に急行「しなの」が気動車化されたとき使用されたキハ55が配置されていた機関区でもあ…

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【907】 下り急行「きそこま」~「きそ1号」

以前、早朝に家で聞こえてくる列車の音で時刻がわかるという話を「【887】時計代わりになった列車の音」で書いたが、そのなかで、朝6時前、最初に通過していく下りの旅客列車が長野行気動車急行「きそこま」(→「きそ1号」)であった。そのころ中央西線の定期急行は、下の画像のように8両編成以上の長編成で、1等車(→グリーン車)を2両連結している編成が多かった。 ところが、この下り急行「きそこま」(→「きそ1号」)はそうではなく、1等車もない全車自由席の4両編成であった。 時刻表の編成表にも、こんなローカル急行の編成は掲載されていなかったが、その編成は前2両が長野運転所(長ナノ)のキハ57かキハ58で長野行。後ろ2両が多治見機関区(名タミ)のキハ28で塩尻行であった。なにより珍しかったのは、この急行列車は名古屋始発でなく多治見始発だったことと、勾配線区なのに1エンジンのキハ28が使用された定期急行列車だったことである。いちおうお断りしておくが、当然全車が非冷房時代のことであって、キハ28には冷房電源用エンジンを装備していないころのことである。 そもそも、そのころの私にはキハ28、キハ58とキハ57の違いがさっぱりわからず区別ができなかったが、それは小学4年生の時に誕生日祝いとして親に買ってもらった誠文堂新光社刊「気動車ガイドブック」を読んでからわかったことである。 古い時刻表を参照していくと、「きそこま」はもともと準急行列車として運転されており、1966年10月のダイヤ改正から急行列車になったようで…

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【899】 小学生時代に見た旧形客車の記憶 4

小学校の高学年になると、車両の形式と所属箇所の標記を注意してみるようになっていった。 画像は国鉄就職後に撮影した荷物列車で、子供のころのものではない。田舎住まいの小学生でカメラや時計を持つ子など、私を含めていなかった時代だから、撮影して記録することはできず、見た表記を忘れないようにメモしておくしかなかった。たまに名古屋に行ったりすると、中央西線では見られない形式の車両や所属標記を見ることができてうれしかったものだ。 東海道本線の車両にある門モシ・鹿カコなどの表記の車両を見ると、一生行くことがないような遠方から来ている車両に出会ったような気がしていた。 中央西線の普通列車でも、一時的ではあったが信じられないような車両を見たことがあった。その車両とは、オハフ60とオハ62の2種類で、所属表記は「旭アサ」「札イワ」「札ムロ」の3種類があった。1両や2両ではなく、たぶん数両以上は運用されていたと思う。なぜ北海道の車両が紛れ込んでいたのかわからないが、記憶も確かだし、小学校5年生のころのノートに所属表記と形式名が書かれているので間違いない。 季節が夏だったか冬だったかは記憶にないが、期間は1週間や2週間ではなく、もっと長い期間にわたって、名古屋客貨車区(名ナコ)の編成に混入していたように記憶する。その時期には、普通列車に使用する3両の付属編成が2両に減車されたり、オハフがオハニに変更されたりしたこともあったから、波動輸送で臨時急行列車を多発するに当たって、普通列車用のオハ35やオハフ33あたりを…

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【897】 小学生時代に見た旧形客車の記憶 3

先月から、中央西線を走っていた客車のなかで、特徴があって今でも記憶にはっきり残っている車両について書いている。私が小学生のころのことなので、写真もないし記憶があいまいな点もあるので、誤りなどあったらご容赦いただき、ご指摘を願いたい。 <並ロ格下げ客車の記憶> 2等級制だったころ、リクライニングシートを装備していない固定式4人掛けや2人掛け転換クロスシートの旧式1等客車は「並ロ」と呼ばれていたが、冷房化されることもなく1964~1965年にかけて大量に2等車に格下げ改造されたり、荷物車に改造されたりした。そういう知識は後になって得たことであるが、実際にその時期に中央西線には1等車のままの内装を遺した格下げ2等車が走っていたのは知っている。 そのとき見た格下げ2等車の形式は、 ・オハ51(←元オロ41) ・オハ53(←元オロ35) ・オハ55(←元オロ36又はオロ40) ・オハフ52(←元オロフ32) と、複数の形式があり、各地で晩年まで残っていたロングシ-ト改造車ではなく、4形式とも1等車時代の内装のままの車種であった。これらはすべて名古屋客貨車区の運用に入っていたと記憶する。 (オハ51と言っても、赤い北海道用50系客車のことではない。) (画像はオハ55に格下げされる前のオロ36の模型) オハ55は非常に幅が広い窓の4人ボックス固定シート車で、そのほかの3形式は正方形の小窓がずらりと並んだ2人掛け転換クロスシート車であった。これらの格下げ車の外部色はすべ…

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【895】 槇ヶ根越え 《中央西線 恵那→武並》

子供のころ、中央西線では蒸気機関車が牽引する列車が多かった。冷房はもちろんなかったし、扇風機さえもない客車がふつうにあったから、夏場には窓を開放しなければならなかった。そういえば機関車の煙突からけむりといっしょに排出された粉塵が目に入って痛い思いをしたことだって何回もあった。旧形客車の中には、煙から出る粉塵除けの網戸が装備されていた車両もあった。 (画像はリニア鉄道館の展示車) 窓からは煙が入るから窓側に座った人がトンネルに入るたびに窓を閉め、出れば開けなければならなかった。 オハ31とオハ60の窓割だと、トンネルに出入りするたびに、4人掛けのボックス席に背中あわせに乗っている乗客同士がお互い後ろを振り返って、示し合わせて窓を開閉することになる。中央西線のようなトンネルが多い線区では煩わしい。そんなとき振り向いた前後のボックスが無人だったり、私のような幼児が乗っていると、大人が背ずりの上から手を伸ばして前後のボックスの窓を開閉したりした。オハ35系やオハ61系の広窓車では、言うまでもなく相席になった窓側の2人で協力して開閉しなければならなかったが、お互いの力の入れ具合によっては、窓枠が斜めになってしまって、うまく開閉できないこともあった。 子供のころに、中央西線をよく利用したが、私は山間部の中津川以北の蒸気列車に乗ったことはほとんどなかったから、それほどトンネルや勾配区間を経験することはないだろうと思われる方がおられるかもしれないが、そうでもなかった。 参考として昭和40年10月…

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【893】 小学生時代に見た旧形客車の記憶 2

先週からの続編として、中央西線を走っていた客車のなかで、特徴があって今でも記憶にはっきり残っている車両について書いている。私が小学生のころのことなので、写真もないし記憶があいまいな点もあるので、誤りなどあったらご容赦いただき、ご指摘を願いたい。 <スハニ31の記憶> スハニ31は、同じ「31」の形式名を名乗る17m級のオハ31とはまったく異なる系列の客車であって、スハ32の系列で20m級の客車である。後期車はシングルルーフであるが、初期の20両がダブルルーフで、車体のリベットも多くたいへん古めかしいスタイルをしていた。1966年ごろを最後に中央西線でオハ31を見なくなった後も、ダブルルーフ車のスハニ31前期車が残っていて見ることができた。このNゲージ模型は欲しいと思っているが、あいにくMODEMOから長く再生産されないので入手していない。画像加工でシングルルーフ車の屋根だけを他の画像に置き換えて、そのイメージを再現したのが下の画像 はっきり覚えているのはスハニ31のトップナンバーがよく連結されていたことで、前回同様「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション16 国鉄の客車1950~1960」掲載の1964年4月1日現在の名古屋客貨車区の配置車両の確認をすると、スハニ31は5両(1,2,7,14,15)が在籍している。この車両に乗ったのは一度や二度でなく、その特異な室内も記憶にある。屋根構造以外の特徴は、室内灯は白熱灯ながら、オハ61系の大きく角ばった灯具とはちがい、ガラス部分がやや小さ…

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【891】 小学生時代に見た旧形客車の記憶 1

昭和40年代前半、中央西線の普通客車列車は、列車によって名古屋客貨車区(名ナコ)と松本客貨車区(→松本運転所 長モト)の基本編成5両で運用されていたと記憶する。 画像は昭和47年に松本駅で撮影したオハ61系で編成された松本運転所所属の客車 中央西線全線を通して運転される列車の多くは、これに荷物車(半室のスハニやオハニを含む)や郵便車を併結し、中津川(一部多治見)~名古屋間では、さらに2等車の付属編成が増結される列車も多かった。付属編成は列車によって名古屋客貨車区(名ナコ)所属オハフ+オハ+オハフの3両と、中津川客貨車区(名ナツ)所属オハフ+オハの2両とで運用され、朝の上り通勤列車には中津川から付属3両と基本5両の8両、多治見以西ではさらに2両の付属編成を増結する列車も見られた。名古屋客貨車区の車両はオハ35系が多く、急行用ナハ10系や、スハ43系のうちオ級軽量車も混入した。松本と中津川の車両は背ズリが板張りで扇風機がないオハ61系主体で組成されていた。通路に折畳みの補助席がある車両に乗った記憶がある。オハ35系だったように思うが形式も所属もわからない。通路床面に真鍮製の痰ツボが埋め込まれていた客車は多かったが、それが何のための穴なのか私にはわからず、靴先を突っ込んだりしたことがある。 あのころは、路上で痰を吐いている人をけっこう見かけた。駅の待合室にも白い琺瑯製で「工」の字が書かれた痰ツボが置いてあった。車内の床にあった痰ツボには後に鉄板で蓋をされていった。 中央西線を走っていた客…

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【889】 鉄道趣味を自覚し始めたころ~切符・車両・参考書籍

小学生のころ、最低限の生活必需品は歩いていける駅前商店街で手に入った。子供の買い物にしても、100円未満の駄菓子とかオモチャの類は入手できたが、商店街は日曜が休みであった。そういう時、母の買い物にくっついて隣の中津川や恵那まで列車で出かけることがよくあった。そこまで行けば、半日は潰れてしまうが、まともなプラモなどが入手できた。その行き帰りには、中央西線の普通列車に一区間だけではあったが乗れた。高学年になると、親といっしょでなく、同級生たちと遊びに出かけることもあって、一度に恵那と中津川両方に出かけたことがあった。…と、いうことは自宅最寄駅である美乃坂本をいったん通り過ぎることになる。そういう列車の乗り方がすごく新鮮に思えたし、手にした乗車券の着駅名がいつもと違っていることもまた新鮮に映って、使いもしないのに余分に1枚買ったことがあった。 降りるときに「切符集めているのでください」と言えば,使用済みの切符をもらえたかもしれないが、そんな知恵も度胸もなかった。こういう心理や行動は、当時すでに乗り鉄魂や収集癖があったことを示しているのかもしれない。 車両に書かれた形式番号と所属標記の意味は父が教えてくれた。列車に乗れば車両の外観が見えないが、その代わり車内の様子が確認できた。 母の実家が名古屋市内だったから年に数回ではあったが同行することがあって、乗る車両の違いを意識するようになっていった。 前に書いたが、母が名古屋に行くときは早朝に家を出て、母の実家の最寄り駅である大曽根で下車した。たぶん…

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【887】 時計代わりになった列車の音

実家があったところは静かで、遠くの林の中で鳴くウグイス、ときにはカッコウなど鳥の声もよく聞こえた。毎日正午を知らせるサイレンもよく聞こえたし、決まった時刻に聞こえてくる音は時計代わりにもなった。隣の「組」に住むKさんが家の前を「原動機付自転車」で通過していくのが平日の毎朝8時であった。「原付」といえば、当時でも「スーパーカブ」などが主流だったが、Kさんのは、ペダルが付いた普通の自転車とあまり変わらない形状の車体後部にエンジンを取り付けた旧型の「原動機付」の「自転車」で、「パタパタパタ」と盛大な音を出したので、音だけで他のバイクとの区別ができた。Tさんが行くと、つまり8時には登校するため私が家を出る時間で、それから学校まで歩く途中でD51に牽かれた木曽福島始発の名古屋行普通列車が駅を発車する汽笛が聞こえ、歩いている場所によっては列車そのものが見えたし、見えないところでも大きな走行音が聞こえた。その列車が通り過ぎるときに自分がどのあたりまで歩いてきたかによって、始業時まで余裕があるのか、慌てなければならないかが判断できた。Tさんの原動機付自転車は、いつも駅前の自転車置き場にあったのを記憶しているから、その名古屋行に乗って通勤していたのかもしれない。 実家のあたりから、中央西線の線路まで最短直線距離で600メートルほど離れていたと思うが、早朝は鉄道の音で時刻がわかった。小学生時代、中津川始発の上り名古屋行一番列車が気動車列車で、美乃坂本駅を発車する「ファ~ン」というタイフォンがよく聞こえた。古い時…

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【885】 中央西線複線電化工事が行われていたころの記憶

東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、私は小学1年生になる。1966年には名古屋~瑞浪間が複線電化され、さらに2年後の1968年には中津川まで電化が完成し、一部を除いて複線化も完成した。その工事期間と私の小学生時代が、ほぼ一致する。複線化は部分的に少しずつ工事が行われ、その部分が完成するたびに非電化のまま複線として供用されるということを繰り返し、そのあと電化工事が進められていった。 当時私が住んでいた美乃坂本駅付近では1965年(昭和40年)頃に複線化工事が始まった。家から小学校への通学路には、中央西線の掘割区間に架かる道路橋があった。廃レールを柱として再利用した4トンの重量制限がある華奢な橋で、その上からは複線化工事の進捗状態がよく見え、3台の黄色いブルドーザーによって掘割区間の片側の土砂が削り取られてゆき、その土砂は築堤部分へ運ばれ、それが盛られていく様子が見えた。工事が進むと、単線用の掘割に架かったその道路橋は撤去され、複線用の新しい鉄筋コンクリート製の道路橋が架けられるまで、通学路は近くの踏切道に迂回することになって、踏切では汽車には十分気を付けるように言われた。下は、そのときに架け替えられた複線用の新しい道路橋の現況。 このころには自転車を買ってもらったので、学校から帰ってから、いっしょに遊ぶ友だちがいないときは、線路端の工事現場の近くまで出かけるようになって、単線(現在の上り線)の築堤に腹付で土が盛られ、現在の下り線ができていく工事の様子を観察…

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