【816】 時刻表にない列車

先々週から国鉄時代の客車列車についてのエピソードなどを書いていますが、その記事に対して、「国鉄時代に乗車した列車に回送車両が連結されていたのを見かけた、または回送車両が連結されている旅客列車に乗車した」というコメントを複数いただきました。私の乗務列車でも回送の例があり、【317】思い出の乗務列車6: 関西本線 223列車(後篇)~夜行寝台編成?で、実例を書いています。こういう回送車両では客扱はせず、施錠され消灯し日除けカーテンが下ろされているのが普通です。 しかし、回送車両が便宜的に客扱をしていたと思われる内容のコメントもいただきました。その該当部分を勝手ながら引用させていただきます。 「昭和48年頃ですが、西鹿児島からの日豊本線上り普通列車に、全検出場の客車(オハ35?)が付いていたことがありました。 ぶどう色ピカピカの車体に屋根はキラキラ輝いていましたが、ブラインドは全て降ろされていて、小学生の目にも回送にみえます。 ところがサボはちゃんと下がっていて、連結幌も繋がっていましたのでドアを開けてみるとガラガラと開きました。 薄暗い車内は、真新しいモケットとニス、塗料の匂いでうっとり?してしまいました。 他には誰も乗っていません。列車は動き出したのでブラインドを開け、緊張しながらすわっておりましたら、途中駅から他の乗客も加わり、巡回してきた車掌さんから咎められることはありませんでした。 確か、都城で切り離されたように思います。 トンネルでも車内灯が点きませんでしたので、本来…

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【814】 急行「越前」号の謎(後篇)

先週の【812】急行「越前」号の謎(前篇)の続きです。 「謎」はすでに前篇にいただいたコメントで解明されていますが、いちおう検証?してみたいと思います(*´▽`*) 小難しい話になりますことを、あらかじめお断りしておきます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 私が乗った急行越前号は、旧形客車独特の大きなブレーキ緩解音が発車の1分くらい前にあって、すでに近代的な電子音に変わっていた駅の発車ベルが鳴りやむとEF70のホイッスルが鳴り、続いて自動連結器のガクンという大きな衝撃とともに定刻に上野に向けて発車しました。 (画像は当日の撮影ではありません。別の日に田村駅で撮影したEF70です。) EF70の後ろには施錠された回送車のオハフ、その後ろに普通車が4両。続いてグリーン車が2両でそのうち1両は故障したB寝台車の代用、その後にB寝台車、A寝台車、荷物車が各1両ずつで計10両を機関車が引っ張るという編成です。以下の画像は所定編成を示した時刻表(1982年6月号)からの転載画像と所定編成をイメージした模型です。くどいですがあくまでもイメージです、 先週書いた私の推理では、9号車のオハフが回送車になった理由は、途中駅で解錠されて乗客が乗ってくるだろうということになっていました。しかし、結果から言うと、終点の上野まで回送のままで、乗客が乗車してくることはありませんでした。もともと非冷房の車両ですから接客設備上の故障はなかったと思われますし、走行系の故…

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【812】 急行「越前」号の謎(前篇)

先日、国鉄時代に福井~上野間に運転されていた急行「越前」の普通車自由席に乗ったことを書きました。今回はその時体験したことを書いてみます。 まず、急行「越前」についてプロフィールを書いておきましょう。 私が乗ったのは1982年7月でした。始発の福井でEF70の1000番台が先頭に連結されていた記憶がありますので、おそらく富山でEF81 に交代して、列車の進行方向が変わる直江津から先はEF62 がけん引し、横川~軽井沢間ではEF63 の補機が連結されたと考えられますが、それらの機関車交代劇について当日確認はしていません。 そのころ首都圏対北陸の夜行列車は、長岡経由の特急「北陸」と急行「能登」(以上2往復は金沢発着)と、長野経由の急行「越前」(福井発着)とがありました。このうち2本の急行「能登」と「越前」はどちらも旧形客車で組成され、AB寝台車とグリーン車、普通車を連結した列車でした。 下は時刻表1982年6月号からの転載画像です。 この3か月半後に上越新幹線が開業した時点で「越前」が廃止され、それまで金沢発着で長岡経由だった「能登」が長野経由に変更されて、その代役を引き受ける形になって、そのときから使用車両が14系客車になりました。 その急行「越前」廃止直前1982年夏の急行「越前」の主な駅の発車時刻(終点は到着時刻)は以下のとおりです。 【下り603列車】 上野20:53⇒高崎22:27⇒長野1:00⇒直江津3:02  ⇒富山4:50⇒金沢6:01⇒福井7:11 …

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【808】 変な忘れ物

列車の中での忘れ物は多いわけですが、宮脇俊三さんは、生前、国鉄時代の東京駅を取材され「東京駅 素顔の24時間」(著書 終着駅は始発駅に収録)という短編を書いておられます。その中から引用させていただくと、東京駅へ取材に行った折の「お忘れ物承り所」で、「なかに入ると、無いものは無いといってよいほど何でもある。人間とはこんなに何でも忘れることができるのかと感心してしまう。」という感想をお持ちになったようです。 私たちも、テレビ番組で、どうしてこんなものが?と思うような忘れ物が紹介されるのを知って驚いたりもします。私も車掌在職中に変な忘れ物に出会ったことがあります。 (以下の画像はJR東海になってから撮影したもので、当日の撮影ではありません。) 国鉄時代のある日、乗務していた東海道本線下りで、大垣から支線に直通する美濃赤坂行。 終点美濃赤坂に着くと無人になった最前部車両の進行左側の荷棚に縦横各30㎝、高さ15㎝くらいの無地の段ボール箱が1個載っているのを見つけました。 途中駅で降りた乗客の忘れ物のようでした。先々月に「【787】美濃赤坂線」の最後のほうで書いたように、終点の美濃赤坂駅は、旅客営業上は無人駅でした。列車はすぐ折り返して大垣行になりますから、忘れ物も折り返して大垣駅に引き継ぐことになります。 その箱は持つととても軽く、何も入っていないようにも感じましたが、粘着テープでしっかりと封がされ、側面にはキリか千枚通しが開けたと思われる小さい穴がたくさん開けられていました。 その様子か…

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【806】 車内の遺失物

列車から降りたお客さんが、「しまった!鞄を忘れてきた」と気が付くと、下車駅で申告しますね。私も小学4年生のころに、母と一緒に出かけた帰り、母の買物袋を持たされて列車に乗った際、うっかり車内の座席にその買物袋を置きっぱなしにしてきてしまい、駅で降りて駅前広場に出て母に言われてから気付いて慌てたことがありました。 あのときは母にこっぴどく叱られ、高学年にもなってあまりにも責任感がないなど責められた挙句に、事後の手続きを全部自分でやるよう言いつけられ、半泣きで駅に捜索依頼に行きました。駅では何両目のどのあたりに乗ったのかを聞かれたのですが、私の場合は意識して機関車の直後の客車に乗りましたし、進行左側中央付近に乗ったことははっきり覚えていましたから、すらすらと答えられました。 重大な失敗をしたその日のことはよく覚えているもので、買物袋の色や柄などの特徴は今でも記憶に残っています。また、当時DD51が主に中央西線の旅客列車用として稲沢第一機関区に非重連タイプ46~50の5両だけが配置され、普通客車列車の一部がDL化された時代でした。その名古屋行き普通列車はDD51 50の牽引だったことも、駅前広場で忘れ物に気付いた直後に、視界から去っていく列車の光景さえも記憶にはっきり残っています。幸い買物袋もその中身も後日戻ってきました。いったん自分の手を離れたものが戻ってきたことで、駅の人だけでなく国鉄のいろんな人の手を煩わせたであろうことは小学生でもわかり、申し訳ない気持ちと、手元に戻った喜びが同時に湧いてきまし…

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【804】 乗務先で買った駅弁

以前、【260】レチ弁で、乗務するときに車掌が食べる弁当について書きました。そういう弁当は、地理的な問題や乗務する列車のダイヤの都合上、駅や機関区、車掌区などにある職員食堂や駅周辺の一般の食堂をを利用できない場合に限って利用できました。ローカル列車で2~3時間で折り返すような車掌にはその必要はあまりありません。しかしあえて駅弁を買って食べたいと思うことは、私の場合にはありました。(ふつうの車掌ではそんな人はいないでしょうが) また、乗務の折り返しで駅弁を買って、家に帰って食べた話も【570】駅弁食べ比べ ~1987年3月国鉄最末期~で、しましたが、今回は、乗務の折り返しで、わざわざ駅弁を買って食べたときの話です。 昭和60年3月に国鉄ではダイヤ改正があり、それからほぼ毎月1度ずつ東海道本線の米原駅に19時前に着く下り普通列車に乗るようになりました。米原到着後、折り返しの乗務列車まで1時間以上あって、その時間帯が夕食タイムでした。米原は東海道本線と北陸本線とが交わる交通の要衝で、駅をはじめとする鉄道施設は大きいのですが、街自体の規模は小さかったこともあって、夕食は駅の待合室に接した食堂で済ませるのが普通でした。私はというと、この行路では米原で駅弁を買って乗務員乗継詰所で食べることがよくありました。このころ駅弁は600~800円が相場のようで、食堂で食べるよりも量が少なく割高だったと思いますが、乗務範囲の駅弁をなるべく多く食べて掛紙を集めたいと思っていました。当時でも駅弁は高級化と他社との差別…

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【790】 安全の願いと殉職者慰霊碑

先日は名古屋車両区へ行く機会を得て、その敷地内にある大金輪神社と成田不動尊にお参りしてきました。輸送業務にたずさわる現場にこういう場所があるのは、多数の乗客の安全を守らなければならないという使命感と、公務災害を失くしたいと思う心、そして過去の過ちへの反省とがあるからなのでしょう。 それほど国鉄の現場は、一つ間違うと命を落とすような危険な職場でありました。私が国鉄に就職が決まったとき、うちの父親は単に喜んでくれるのではなく「カッポレでなければいいがなあ…」という心配をしていました。「カッポレ」とは構内掛のことで、その昔は連結手と言われていました。「Coupler」が語源だと思われますが、正式名称ではなく蔑称ともいうべき言葉で、今風に言えば差別用語でした。ターミナル駅では分割併合に機関車の連結がありましたし、中間駅でも旅客営業のほかに貨物営業も取り扱う駅は多かったですから、危険な貨車の連結解放作業を経験しなければなりませんでした。 それも規模が大きい駅になれば、それが専業になり、明けても暮れても、暑くても寒くても雨でも雪でも、連結、解放。突放された貨車に飛び乗って、ブレーキをかけて飛び降りることが仕事になりました。 今は突放作業は見られず、機関車で押し込む人にやさしい仕事に変わっていますが、そんなやり方では貨物列車が全国ネットで走っていたころには、限られた列車の停車時間内に作業が終われませんし、操車場では次々と到着してくる列車を捌けません。運動神経がよく、そういう作業が得意な者はともかく、一…

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【789】 鉄分補給2017.4.23:名古屋車両区

昨日4月23日、JR東海の名古屋車両区へ行ってきました。 JR東海のウォーキングイベントである「さわやかウォーキング」で、この日は名古屋駅スタートの「みんな集まれ 列車とバスの夢の共演ウォーキング!!」というコースが設定され、そのコース中に名古屋車両区が取り入れられたのでした。 歩くことはたいへん好きな私ですが、人ごみは大嫌いなので、ふだんはこういうところには出没しないのですが、名古屋車両区に入れる機会など、こういう時でなければありませんから、【219】鉄分補給2011.11.13:美濃太田車両区で書いた「美濃太田駅開業90周年記念 みのかも文化の森と美濃太田車両区見学」以来5年半ぶりの「さわやかウォーキング」でした。 コースマップによれば、コース距離は約5.2㎞、所要時間約1時間30分とありましたから、そのつもりで午前中だけ時間が空いていたので出かけたところ、かなりの人出で、車両区前の近鉄の踏切待ちのために公道上で長蛇の列に巻き込まれてしまいました。 それをクリアすると、検修庫に展示された車両群が出迎えてくれました。 現在の主役たちが並ぶ姿は壮観です。この検修庫は、かつては蒸機が出入りしたものです。現地には名古屋車両区の沿革が掲示されており、この場所に移転した昭和10年に竣工した建物であるとのことです。屋根には蒸機時代の煙突があった跡が残っているそうですが、庫内は公開されていませんでした。 この名古屋車両区では、現役の転車台があります。この日はキハ85を転車台に載せて回転…

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【787】 美濃赤坂線

「美濃赤坂線」は東海道本線の大垣と美濃赤坂を結ぶ「東海道本線の支線」の通称名です。実際の線路は東海道本線の南荒尾信号場から美濃赤坂までの1.9kmの単線鉄道で、大垣・南荒尾間には別線が設けられているわけではなく、列車は東海道本線そのものを走っています。南荒尾信号場から分岐してすぐのところには荒尾駅があり、1.6㎞先が終点の美濃赤坂です。 高校生時代の私は、中央西線で通学していました。その在学期間中に中央西線と篠ノ井線が全線電化されて、381系しなの号が走り始めました。このとき通学に使うローカル普通列車にも変化があり、新たに神領電車区に配置された中古の113系を使用した東海道本線直通の上り列車が午後に2本新設されました。中津川発14時37分発浜松行と16時31分発美濃赤坂行がそれで、いずれも旅客の流動に対応した直通運転ではなく、、主に日中の中央西線内の快速運用に就いた113系電車を、夕方の通勤時間帯に東海道本線で使用したいという国鉄側の都合のように私は思っていました。 そんなことはどうでもいいのですが、中央西線沿線で「浜松」は通りがいいとしても「美濃赤坂」と言われても、利用者の反応は「それ何処?」というのがふつうでした。駅や車内で「これ名古屋行きますか?」というような会話はよく聞きました。中津川の次に「美乃坂本」という紛らわしい駅名もあることですし、それだけでなく美濃赤坂までの経路にしても、多治見から岐阜までは、名古屋経由のほかに、太多線・高山本線を通る美濃太田経由もありますから、「この…

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【782】 国鉄の遺品、そして分割民営化に揺れたころ

JRが発足してから30年を迎えようとしています。 前回、今のJRに対して想うことはすでに書いたので、国鉄の「遺品」などもご覧いただき、あのころを偲んでみましょう。 国鉄名古屋鉄道管理局が作成した下敷き。 「国鉄のリニアモーターカー」の延長線上にあるリニア新幹線は、30年経った今、JR東海の手によって着工されています。先々週、近くの非常口建設予定地に赴いたところ、重機が動いていました。 再掲画像ですが、岐阜県内の中央西線沿線にはこのような看板が立っています。 こういう変化がある一方で、30年も前になくなった国鉄の遺品は、とうの昔に巷から消え去ったかと思うと、意外なところで「国鉄」に出会ったりします。、岐阜県内の中央西線沿線の踏切に近い道路沿いの民家には、今でもこんな看板が軒下にぶら下がっています。↓ 踏切防護協力員とは何でしょうか?私にもわかりませんが、踏切を支障して事故になる危険があるときに列車を停めたり、関係機関に連絡したりするのでしょうか? これは数年前に撮影した画像ですが、つい先週現地を通りかかったところ、まだ看板は健在でした。 下の画像は名古屋市内の某所にあった地図です。 ちなみにJR八田駅は2002年に0.5㎞名古屋方に移転して、地下鉄と近鉄とに直結しました。この地図は実態に合っていないわけですが、撮影したのは今月(2017年3月)初旬です。 30年前のその日、つまり3月31日から4月1日の間に、車両にはJRのシンボルマークが貼られ、駅など公共の…

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【781】 30年経ったJRに思う

国鉄時代には仕事で列車に乗らされていたので、プライベートでは積極的に鉄道に乗ることがなかったくせに、国鉄から転職したあと、旧国鉄線へ何度も乗りに行きました。 しかしその間に廃線になった線区が数多くあって、その路線には永久に乗れずじまいになりました。そうかと思えば、連絡船に頼っていた北海道が青函トンネル完成によって、そして四国は瀬戸大橋完成によって、それぞれレールが本州とつながって、日本列島がレールで結ばれる結果となりました。それだけでなく、昨年ついに新幹線だけで北海道から鹿児島まで乗り継いで行けるようになりました。 かつてなかった新しい需要を生み出し、新しいタイプの車両が生まれ、首都圏や近畿圏ではそれまでになかった他線区との直通乗り入れが実現して、日本の鉄道は国鉄時代より確実に進化し、多くの乗客にとって快適迅速で便利な交通機関に成長したと思います。ただし、それは一つのJR旅客鉄道会社の範囲内の列車に限って言えることです。 そういう中で、消えていったのが夜行列車で、定期夜行列車がサンライズ瀬戸・出雲だけになる日が来るとは思いませんでした。これは鉄道が長距離輸送の分野から撤退したことを意味します。また、昼行も含め、JR他社にまたがる列車が縮小されてきたことも確かです。全国一体組織であった国鉄から旅客会社が地域分割化された時点で、他社線区にまたがる列車が縮小されるだろうことは、ある程度想像できましたが、一方で高速バスが利便性の向上や車両の快適性アップを積極的に推進したのに、JR各旅客会…

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【780】 中央西線を走った車両10 :キハ91系気動車

1968年10月の全国ダイヤ改正から中央西線・篠ノ井線に予定されていた新形ディーゼル(キハ181系)特急運転開始に先立ち、その1年前の1967年10月のダイヤ改正から、名古屋機関区(→名古屋第一機関区)に配置されたキハ91系を使って、長期にわたる新形ディーゼル機関の性能試験を兼ねた営業運転が開始されました。 (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.21 中津川~落合川) キハ91系という新型車両による営業運転が開始されることは、当時中央西線で貨物列車の車掌をしていた父から聞きました。おそらく所属した車掌区では、乗務する可能性がある専務車掌班には資料が配られたりしたでしょうし、現車による訓練も行われたかもしれませんから、仕事に関係がない貨物列車の車掌にまで新車導入情報が伝わったのでしょう。しかし貨物列車の車掌である父からの情報内容は正確ではありませんでした。 そこで聞いた内容は「来年から特急が走ることになって、その新車を使った急行が走る」というものでしたから、私は鉄道関係の本で知っていたキハ80系のような特急形車両が一時的に急行として走るのかと思い込んでしまいました。 そのころ私は小学生で、住んでいたのは中津川の隣にある美乃坂本駅から歩いて15分ほどのところでした。時刻は父が教えてくれましたので、休日に自転車でその列車を見に沿線に行きました。  (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.27 美乃坂本~恵那) キハ91系を使った急行列車は名古屋を午前中に発車して長野まで一往復す…

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【779】 岡多線北野桝塚駅での思い出

先週は、国鉄時代の電車列車の出発合図についてお話しました。 今回は、岡多線の北野桝塚駅のお話です。 国鉄北野桝塚駅は、JR東海を経て現在は愛知環状鉄道の駅で、愛知環状鉄道本社と車両基地の最寄り駅になっています。国鉄時代の岡多線には、70系~113系~165系電車が使用され、113系が走っていた時代に私は3年間ほど、この線に乗務していました。 岡崎から北野桝塚までは単線自動閉そく区間でしたが、ここから当時終点だった新豊田駅までは「通票式」によって運転され、北野桝塚駅長と運転士の間で通票の授受をして運行されていました。 ここからは先週書いたことの再確認ですが、 「①当務駅長―(出発指示合図)→②車掌―(閉扉=出発合図)→③運転士起動」 という流れで、この駅では、この前に通票の授受が加わりました。 ①当務駅長が、運転士と通票の授受をしてから出発信号機の現示と時刻を確認して、発車時刻になると車掌に向かって「片腕を高くあげる」動作で「出発指示合図」を送る。 ②車掌は、その出発指示合図を受けて、自らも出発信号機の現示と時刻を確認して、車掌スイッチを閉位にする。ドアが全部閉まると、車側表示灯の赤色灯が消灯し、前部運転室の「運転士知らせ灯」が点灯する。その点灯が車掌から運転士への「出発合図」とみなされる。 ③運転士が「運転士知らせ灯」の点灯と、出発信号機の現示、時刻を確認し電車を起動させる。 このように運転に関しては、安全確保が徹底しているのですが、乗降客が少ないこ…

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【777】 新駅と出発合図~国鉄末期の混乱

国鉄時代には、CTCと呼ばれる列車集中制御装置が一部線区にしか導入されておらず、多くの駅に運転取扱要員が配置されていました。運転取扱方も、機関車牽引列車を前提に規定され、当務駅長(駅長・助役・運転主任など)が、通票の授受、時刻、出発信号機の現示、客扱荷扱の終了を確認したうえで、車掌を介さずに「出発合図」を直接機関士に送って列車を発車させました。画像は関西本線島ヶ原駅ホームに残っていた駅員の列車扱いの確認事項を書いた表示です。(2006年8月撮影) しかし気動車列車や電車列車の場合は、自動ドアを装備しており、その取り扱い者が車掌であることから、車掌が機関士に「出発合図」を送ることとされていました。この場合、当務駅長が車掌に「出発合図をする時期を指示する合図」が「出発指示合図」です。 気動車列車や電車列車を出発させるための手順は、「当務駅長―(出発指示合図)→車掌(閉扉)―(出発合図)→運転士」という順番になるわけです。12系客車のように客車列車でも自動ドアの車両がありますが、客車はあくまでも客車であって機関車牽引列車ということで、当務駅長が車掌に対し「閉扉合図」を出し、車掌がドアを扱い当務駅長と車掌が閉扉確認したあと、従来の旧型客車列車同様に、当務駅長が機関士に直接「出発合図」を送る取り扱いをしました。出発信号機の現示と時刻、安全の確認は、駅・車掌・機関士(運転士)の3者で協力して行われていたことになります。 しかし、出発信号機が設けられていない閉そく区間の中間停車場や、出発信号機があっても分…

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【773】 命がけの実地訓練?

ここは中央西線、鶴舞駅。 私が国鉄の車掌時代、この駅のホームでヒヤッとしたことがありました。 それは夜おそく、153系8両編成の普通列車高蔵寺行に乗務していたときでした。乗降終了後、定刻にドアを閉めたのと同時に、階下の改札から最後部車両に近い階段をホームへ上ってきたオッサンが目に留まりました。そしてドアが閉まったのに列車に向って突進してきました。危ない!と思うと同時に、オッサンは列車の前でピタッと立ち止まり、こんどは体の向きを変えることなく、のけぞるように後方にフラフラよろけながら電車から離れていきました。その足取りからして酩酊状態でした。やれやれと思う間もなく、またピタッと立ち止まって、再び勢いよく電車に向かって直角に、走り寄ってくるとも倒れかかってくるともつかないように両手を前に出して列車に向ってきたのです。とっさに私はブザー合図を乱打(合図の取り消し。この場合、取り消す合図は出発合図)しましたが、ほとんど同時に運転士はノッチを入れており、列車はわずかに動き出しました。酔っぱらい氏はこんどは電車の前でピタッと止まってはくれず、まだほんの低速ながら動きだした状態の電車の車体に両手をつきました。電車は低速ながら動いていますから、手だけが列車の進行方向に持っていかれ、酔っぱらい氏はバランスを崩し、ホーム上に倒れ、そのままゴロゴロとホーム上を2回転くらい列車の進行方向へ転がり、電車も同時くらいに止まりました。 現場に走り寄って、「お客さん大丈夫か!」と寄りかかると、酔っぱらい氏、意外にも…

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【771】 合図の誤認

先週、汽笛合図の記事で、「合図」とは「形、色、音等により、従事員相互間でその相手者に対して、合図者の意思を表示するものをいう。」と書きましたが、機関車牽引列車では、車掌と機関士の間では、車掌が手旗など「形や色」を用い、機関士は汽笛の「音」を用いて相互の意思表示を行うことが多かったわけで、意志は伝わりやすいとは言えませんでしたが、乗務員無線機が併用されるようになって便利になっていきました。電車や気動車では、車内電話やブザーの設備がありましたので、車掌と運転士は車内電鈴合図(ブザー合図)で相互の意思疎通を図ることができました。 以前【553】車掌スイッチの記事で、折り返し時に車掌スイッチを取り扱う場合も、いちいち電話連絡をする必要はなく、「車掌スイッチを閉位にせよ(閉位にした)」という意の「・・」という合図だけで意思疎通が図れました。電話連絡が必要な場合は「電話機にかかれ」という意味の「―・・―」というブザー合図のやり取りをして、お互いが送受話器を取って話をするという手順でした。このほかにもブザー合図の例を挙げると ブザー試験「・・―・・」 ブザー良好「・」 支障あり⇒「・―」 乗降場をはずれた⇒「・・―」 ブザーの取り消し⇒「乱打」 などがありました。 ある日の朝、東海道本線165系8両編成普通列車。 運転士は見習運転士と指導運転士のコンビでした。(画像は分割民営化後の165系。清州駅付近での撮影) 〇〇駅に停車寸前に、ブザー合図がありました。 結果としては「・・―…

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【769】 汽笛合図と60.3ダイヤ改正

近年、鉄道車両の汽笛を聞く機会はあまりありません。 昔は、出発するときには必ず汽笛を鳴らしたものです。汽笛はむやみやたらに鳴らすものではなくて、国鉄では運転取扱基準規程で「汽笛合図」が規定されていました。 「合図」とは「形、色、音等により、従事員相互間でその相手者に対して、合図者の意思を表示するものをいう。」 「汽笛合図」とは機関車、電車、気動車等の汽笛により行う合図をいう」 とされ、いくつか汽笛合図の方式が規定されています。その中から抜粋すると、 運転を開始するとき、ずい道、雪おおい、散火かこい、長い橋りょう等に近づいたとき及び注意を促すとき⇒「‐」(適度汽笛) 車掌を呼び寄せるとき⇒「‐‐―」(適度汽笛×2+長緩汽笛) 危険を警告するとき⇒「・・・・・」(短急汽笛数声) 機関車を2両以上連結した列車又は車両が運転の途中で惰行運転に移るとき⇒「-・・」(適度汽笛+短急汽笛×2) 蒸気機関車マニアの方でしたら、「-・・」の汽笛合図はポピュラーでしょう。 今、汽笛合図がどのように規定されているのかは存じませんが、国鉄時代には今回紹介したほかにも、いくつも合図方式が規定されていました。 このうち名古屋鉄道管理局管内では昭和60年3月14日のダイヤ改正時から、騒音防止の一環として列車が運転を開始するときの汽笛合図で、「停車場から運転を開始する場合の汽笛合図」が省略されることになりました。このときの対象列車は電車列車と気動車列車に限られ、機関車牽引列車は対象になっ…

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【765】 電車列車での集札

先週は岡多線三河上郷駅で降りた酔っ払い氏のお話をしました。 当時の岡多線の旅客列車は神領電車区の113系4両編成が使用されていて、この三河上郷駅では出口階段がある位置に列車の最後部が停車するようになっていたので、ああいうことができました。これも岡多線が新しい線区であり、元から無人駅では車掌が集札することを前提に停止位置も考慮された結果だったのでしょう。ところが、古くからある本線系の駅は、そんなことは考慮されていませんでした。列車の前の方に出口がある無人駅はいくらでもあって、一人乗務だと物理的に集札ができませんでした。そういう駅では駅出口付近に置いてある集札箱があれば、そこへ切符を入れてもらうわけで、不正乗車が多数あっただろうことは想像に難くありません。武豊線など集札箱さえもありませんでした。画像はJR東海、落合川駅の集札箱です。上下線が停まる島式のプラットホームの名古屋方の端に出口へ続く跨線橋がありますので、塩尻方面へ行く下り列車では集札には好都合でしたが、名古屋方面に行く上り列車ではそうはいきません。 国鉄の本線用の「電車」、たとえば113系や165系では最後部車両の乗務員室でしかドア扱いができませんでした。車掌スイッチを取り扱ってドア開閉をしますが、別に切換スイッチなるものがあって、運転士が切換スイッチを「後位置」にした車両だけでドアの開閉ができたのです。(客車鍵を用いて車掌スイッチをどの車両の乗務員室からでも取り扱うことが可能な電車も一部にありました。) 無人駅では車掌がドアを開け…

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【763】 酔っ払い(>_<)

飲酒に寛容だった昭和の時代、不特定多数の人が集まる駅や列車内では、酒を飲んで、人に迷惑をかける人が、今より格段に多かったように思います。 さて、今回のお話は、私が国鉄岡多線で車掌をしていたころのことで、昭和50年代半ばのことです。岡多線は現在の「愛知環状鉄道」の一部です。このうち岡崎~新豊田間は国鉄線として開業ししておりJR東海時代を経て、新豊田~高蔵寺間の延長と同時に第三セクター鉄道になっています。画像は愛知環状鉄道に移行後、2005年に愛知万博「愛・地球博」開催中にJR東海から助っ人として入線した113系です。国鉄時代はその岡多線も私の乗務範囲で、全旅客列車が113系4両編成で運転されていました。(国鉄末期に165系3両に変更されました。) 岡崎を発車した直後に車内に入ると、酔っ払ったオッサンが大声でからんできました。 「俺は切符を持っとらん。金は一銭もない。ゼニ取れるもんなら取ってみろ」 「お客さんはどこまで行くの?」 「三河上郷」(←そこは無人駅) 「困ったねえ。どこから乗ったの?」 「そんなことは知らん。」 「じゃあ住所と名前教えてくれる?」 「いやだ」 といった調子でお話になりません。 そのうちに 「タバコ1本くれ。」 「あいにくタバコは吸わんもんで。」 などとやっていると、ローカル線のお客さんは親切で、困っている車掌に代わって、 「ほら、わしのタバコ1本やるで、静かにしりん」(「しりん」は三河弁で「しなさい」の意味。なお当時の岡多線は禁煙では…

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【751】 昭和46年~48年ごろ中津川機関区に所属したD51のナンバープレートの色について考える

前回の【750】KATO長野式集煙装置付D51標準形と、その現役時代の記事を投稿したところ、複数の方から付属のナンバープレート(4種すべて中津川機関区の所属機D51 125・D51 265・D51522・D51 893)は黒色だけれど、中津川機関区は青ナンバーだったのではないかという趣旨のコメントを頂戴しました。 この画像は、電化完成に伴うダイヤ改正の前日《1973年(昭和48年)7月9日》に運転されたさよなら列車牽引用に、お化粧をして再塗装された機関車のナンバープレートです。中津川機関区配属の蒸気機関車は、この827号機のように青ナンバープレートとして一般に知られていました。遠くからでも一目で所属機関区が判別できれば、乗務に限らず関係する作業に従事する職員には便利だったでしょうから、このように機関区ごとに地色を指定することによって、識別を容易にしたのだろうと考えられます。根拠となる規定は知りませんが局や支社単位の規模で定められていたのではないでしょうか。 これは、以前、【422】父の遺品 ~鉄分がある写真~で使ったもので、私の祖父が写っている画像です。この機関車は125号機で、模型に付属しているナンバープレートにも含まれている番号の機関車です。撮影されたのは昭和20年代と推定されます。この機関車は昭和24年(1949年)に中津川に転入しています。モノクロ画像のためにナンバープレートの色はわからないものの、明るさからして黒ではないことはわかります。もちろん集煙装置がなかったころです。動…

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