【1415】 側線との‘ゆかり’ こぼれ話

「側線との‘ゆかり’」について、設定や使用した画像について読者様が疑問に思われたかもしれない点などを雑談的にご紹介していきます。 ◆国鉄多明線のルート設定について  架空の国鉄多明線は、昭和50年代に数少ない本数の気動車列車に混じって日中1往復の貨物列車があった国鉄明知線程度の規模のローカル線を想定しました。この車内乗車券は第12話に貼った画像で、国鉄樽見線の線内着発限定で使用されていた車内片道乗車券の様式をそのまま利用して作りました。この乗車券の駅名から、多明線のルートを想像された方がおられたかもしれません。ルートはJR中央本線多治見を起点にして東濃鉄道旧笠原線のルートを通り、そこから同鉄道旧駄知線の下石駅付近に出て、駄知線ルートに沿ってそのまま地形まかせに国鉄明知駅方面に向けて延長した終点を志野原としました。美濃織部は旧駄知線下石駅付近になりましょうか。終点志野原と美濃織部の駅名は、美濃焼である志野と織部から取りました。樽見鉄道には織部駅が実在しますが関係がありません。ところで、下の画像は多明線内車内乗車券のモトとなった国鉄樽見線の車内乗車券です。織部駅は第三セクター転換後に設けられた新駅ですので、国鉄時代の乗車券に、その駅名はありません。 ◆入換作業中の人形について  第2話にこんな画像を掲載しました。手旗を持った既製品の人形が配置されています。この図は自分の列車掛時代に重なるもので、人形は左右の手に絞った状態のフライキ(手旗)を持っています。左手には緑色旗を絞ったまま高く上…

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【1414】 側線との‘ゆかり’ あとがき

 1ヵ月にわたってくだらない作り話にお付き合いいただきありがとうございました。この物語を書くことになった動機は、スチール棚に置く小型レイアウトを造ったことがきっかけとなっています。数年前にそのレイアウトが完成したことを書いた記事に、「約束の時刻に遅れて駆け寄る男と待っていた女」を表現した人形をレイアウトの駅前に配置した画像を貼りました。下の画像はその拡大版です。そのとき、レイアウト上に配置した人形によって物語が勝手に生まれていくといったことを書きましたところ、読者様から 【男女は駆け落ちです。本当に彼が約束通り来てくれるのか気が気ではありませんでした。男性の息せき切って前のめりにやってくる姿に安堵しつつも、これから二人には都会の荒波にもまれながらの生活が待っています。けして、「ちょっとトイレ行ってくるわ」「もう電車きてるのに!」とか、田舎の劇場にやってきたストリッパーさんと、それを迎えに来た支配人さんの図ではないと思います。】 【男は若手の茄子農家さんで『ごめんごめん!茄子の収穫に手間取ってたもんで、ハアハア』息を切らして女に駆け寄る。『もお~、ワタシと茄子のどっちが大事なのよぉ~』ぷぅーっと頬を膨らませながら答える女。】 というコメントを頂戴しました。そうした想像は人それぞれ違っていて、レイアウトの規模が大きくなればなるほど物語は無限大に湧き出して実際の複雑怪奇な人間模様に近付きます。その酒蔵と製品積み出しのための側線がある駅を中心としたレイアウトを作った元国鉄車掌が、その情景から想像した…

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【1413】 側線との‘ゆかり’(第20話最終回)

 「キハ40で行く車両基地&酒蔵見学列車」の集客は順調で予約がすぐに埋まった。山本課長は坂下に 「ツアーは完売だ。これも君と正ちゃんのおかげだ。どうもありがとう。再就職早々なのに、増収に協力してくれて感謝しとるでな。」 「いや、正一君が動いてくれたからですよ。酒蔵見学は彼の頭の中にもとからあったそうですし。」 「それにしても、長年生きていると不思議なことがあるもんだな。君が正ちゃんのお母さんと面識があったとは知らなかった。」 「ここで車掌をしていなければ、こういうことにはなってませんでしたでしょう。」 「君にここの運転士募集のことで電話したときなあ、たまたま運転士の欠員ができちゃったんだ。補充はJRの定年退職者が手っ取り早いわけだが、運転士の定年退職予定者は大勢おる。そういう中でなぜ君に声を掛けようと思ったかわかるか?」 「さあ、わかりませんが?」 「やっぱり正ちゃんが持っていた写真が決め手だったよ。自分の部下で仕事に定評があった正ちゃんと、自分のJR時代の後輩である君とが1枚の写真に納まっている写真を見せられれば、いやでも君のことは印象に残るさ。そうでなくても、正ちゃんが運転士人生の原点として、子供の頃のJRの制帽かぶった写真をお守りとしていつも乗務手帳に挟んでいるっていうだけでも、ほほえましくていい話じゃないか。あの酒屋の専務さんも言っとったように、あの写真を見て、制帽をかぶせた坂下君からも、その写真を持っている正ちゃんからも鉄道愛が伝わってきた。それで真っ先に君のことを思い出し…

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【1412】 側線との‘ゆかり’(第19話)

 ある日、坂下が乗務を終えてロッカー室で着替えをしていると加藤正一運転士が声をかけてきた。 「先日実家に帰ったとき、車庫と酒蔵見学ツアーの件を両親に話してみたんです。そうしたら、鉄道側から話があれば検討してもいいと言ってました。どうでしょう、坂下さんから山本課長に提案してGOサインが出れば前に進めましょうか。どう思いますか?」 「そういうことなら、さっそく山本課長に聞いてみよう。」 ということになり、その足で山本課長の席へ2人で行った。 話は前向きに進み、行き詰っていた陶芸教室や窯元巡りのツアーに続く新企画として検討しようということになった。  ただ、美濃織部駅が中間駅であり、ツアー客が酒蔵見学をしている間のツアー列車の車両が本線をふさぐこととなるため、定期列車の運行に差し支えるという問題を解決する必要があった。けれども美濃織部駅は無人駅ではあるものの、保守用車の材料線として使っているあの側線が生きた状態であった。側線は通常列車の運行には使用されていなかったが、ツアー列車運転日にその側線から保守用車を志野原の車両基地に移動してあれば、ツアー列車をそこに待避させて定期列車を追い越させることが可能であった。このことこそが実現の鍵になった。  数日後、山本課長と坂下が加藤酒造店から法人化した「株式会社千寿乃泉」を訪問した。坂下が最後にここへ来たのは加藤由香が大学を卒業して神戸に就職する直前であった。今になってこのような用件でここを訪れることになるとは思いもよらぬことだった。そこでは社長と…

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【1411】 側線との‘ゆかり’(第18話)

 その日のハンドル訓練が終わって本社に戻ると、山本課長が 「旧国鉄多明線の運転はどうだった? のんびりしとってええやろう?」 と坂下に尋ねた。 「そうですね。車掌時代のことをいろいろ思い出しました。加藤さんの実家の前で笛吹いたら怒られました。」 「はっはっは、今はいつでも録画されとると思わんといかんでなあ、つまらんことでああだこうだと言われたくないで気を付けてくれ。明日は1両だけ配置されとるキハ40にも乗ってもらうでな。」 「古いし重いキハ40は何に使うためにあるんですか。」 「あれは、朝晩の学生が多い列車に使うためや。キハ11だと2両いるけどキハ40なら詰め込めば何とか1両で済む。定期運用はそれだけで、あとは他の車両が検査のときの代走と工臨の牽引用や。」 「工臨?」 「枕木とかバラストの輸送よ。美濃織部の正ちゃんとこの在所の前の側線に貨車が停まっとったやろ? あれを牽くのや。年に2~3回だけのことやけどな。」 「ほかにキハ40の使い道はないんですか。」 「あとは団臨用。これもめったにない。」 そんな話をしながら、その日が終わった。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・  坂下は翌日キハ40に乗務した。彼はキハ40とキハ11は3年ほど前にキハ25へ置き換えられるまでJRで毎日のように運転していたが、特にキハ40は国鉄多明線の車掌時代に新車で導入されたときから日常的に乗務した車両であったから、再びそのハンドル…

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【1410】 側線との‘ゆかり’(第17話)

 ハンドル訓練が始まる日、山本課長が坂下のそばに来て 「明日からハンドル訓練で実際に運転してもらうが、師匠はこのまえの写真の正ちゃんやでな。」 と言った。坂下は 「正ちゃんではわからんですよ。」 というと、山本課長は 「ああ、加藤正一君や。この辺りは加藤姓がえらく多くてなあ、運転士だけでも2人加藤がおるもんで、正ちゃんって名前で呼ばんと間違えちゃうもんでな。」 と言った。  その翌日、坂下が出勤してロッカー室で着替えていると、あの時の運転士が近寄ってきて、 「坂下さん。先日はどうも…。あのぅ加藤正一と言いますが、今日はよろしくお願いします。」とあいさつしてきた。坂下は慌てて 「あ、こちらこそよろしくお願いします。お師匠さんの方から挨拶してもらって申し訳ないです。いろいろ教えて下さい。」 と返した。 「あ、そんな師匠だなんて、ここでは長いですが、運転士歴は坂下さんの足元にも及びません。」  2人は出発点呼を受けて、検修庫に留置してあるキハ11の方へ歩いていった。  坂下はJRの定年前には鷹山本線や大多線でキハ11にいやと言うほどハンドルを握ってきたから、運転も構造も知り尽くしており、ここでの運転に何の心配もなかった。志野原駅の本線に列車を据え付け、まずは上り列車を運転する。加藤正一運転士に見守られながら坂下が運転しているその列車は、美濃織部に到着しようとしていた。見通しが悪い急カーブで短く警笛を鳴らし、国鉄時代にはかとう食堂だった建物のそばにある踏切を通り過ぎる…

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【1409】 側線との‘ゆかり’(第16話)

 面接の結果、坂下はJRを定年退職後すぐに陶都縦貫鉄道へ再就職して運転士をすることになった。 赴任当日、陶都縦貫鉄道本社に出勤すると、山本運転管理課長が席から立ちあがり、坂下の方へ歩み寄ってきた。 「よう!、ひさしぶりだなあ。坂下君みたいに列車運行の現場を知り尽くしている運転士が欲しかったところだ。配置されているクルマも元JRのキハ11とキハ40だから、JRのときと変わったことはない。あとは線路のことを覚えてもらえばいい。よろしく頼む。まあ座れ。」 と言いながら、部屋の片隅にある簡素な応接セットのソファを指差して坂下に勧め、自分も対面に座った。坂下は 「新人として頑張りますのでよろしくお願いします。この線は国鉄時代に車掌として乗務していましたから、よく知っています。ただし30年以上も前のことですが・・・」 と言うと、山本課長は 「そうか、車掌でこの線に乗ってたのか。それなら何も心配いらんな。それでも一応明日から机上講習と線路見習。ハンドル訓練が終わったら、即本務で乗ってもらうからそのつもりでな。あとで総務課の担当が来て制服とか七つ道具を持ってきてくれるから、それまでここに座って待っていてくれ。」 と言ってから自分の席に戻っていった。 坂下はソファに座って、総務課の担当者が来るのを待っている間、室内を見まわしていた。いかにも小さな鉄道会社らしく、こじんまりとした職場で、応接セットのすぐ後ろにある衝立の奥は乗務員の更衣室になっていて乗務員のロッカーが並んでいた。そこへ乗務を終えた運…

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【1408】 側線との‘ゆかり’(第15話)

 坂下が国鉄の車掌時代からJRに採用されるまでのことを回想をしているうち、対向の志野原行定期列車が美濃織部駅下り線へ入っていく音で我に戻った。ほどなく、こんどは坂下が乗務しているツアー列車の後続の多示見行定期列車が上り線に入ってきて、2本の列車が旅客ホームを挟んで並んだ。その後続列車はここでツアー列車を追い抜いていく。坂下はそれを側線上のキハ40の運転室から眺めている自分が信じられない思いであった。この側線は38年前まで酒を積みだすのに使われ、当時は車掌としてこの側線を使った貨車の入換作業に従事していたのだ。 その2本の列車がそれぞれ発車していくと、またアイドリング音だけが聞こえる静けさが戻った。坂下はJRで定年を控えていた昨年から、この列車が企画されるまでのことを思い返していた。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・  2018年(平成30年)に坂下はJRで定年退職を迎えようとしていた。ここまで乗務員として勤め上げることができて満足していた。乗務中の思い出は数限りなく、その一つ一つは現場で列車の運転に直接かかわり、直接乗客と向かいあったからこそ得られたものであった。さて、この先はどうやって過ごすかということだが、子供は成人し家を出て行ったし、年金受給はまだ先なので乗務員の仕事は続けたい。専任社員としてJRで運転士を続けることは可能なので、もう少しこのままJRの運転士をやろうと思っていたところへ、陶都縦貫鉄道の山本運転管理課長…

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【1407】 側線との‘ゆかり’(第14話)

 年が明け1987年(昭和62年2月)になると、国鉄では分割される新会社の採用者に対して事前通知が始まった。あまりに露骨な人事異動や組合差別によって退職希望者が続出していたので、結果としてJRと呼ばれることに決まった分割後の各鉄道会社は定員割れでのスタートを切ることが確定的となったこともあって、降格人事を経験した坂下ではあったが地元を管轄するJR旅客会社に車掌として採用されることが決定した。  3月31日になれば明治時代から全国組織として続いてきた国有鉄道は終焉を迎えることになっていた。その翌日4月1日に坂下は分割民営化されたJRのうちの一つの旅客会社の車掌となるわけだが、それに先立って特定地方交通線に指定されていた多明線は2月末を以って国鉄から切り離され、翌3月1日から陶都縦貫鉄道に経営が移管されることになっていた。それまでに坂下は、由香に無事にJR社員になることが決まったことを伝えられればと思ったが、坂下が多明線に乗務する機会はあと1行路しか残されていなかった。由香が出産を控えていたことはわかっていたから、休みの日に加藤酒造店へ出かけて行っても店には出ていないかもしれないし、わざわざ出かけて報告するのもどうかと思った。とりあえず最後に多明線に乗務する行路では、加藤酒造店の前を列車が通るたびに由香がいないか見ていくことにした。その最後の1行路では多示見~志野原間をディーゼルカーで1日目午後から夜間までの3往復、2日目は早朝から午前中にかけて2往復する。  乗務当日の1日目午後は北風が強く吹き…

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【1406】 側線との‘ゆかり’(第13話)

 多明線が第三セクター鉄道「陶都縦貫鉄道」に移管されるまで残すところ3か月になっていた。坂下が多明線に乗務できるのもそれまでである。かとう食堂の奥さんから由香が織部に戻っていることを聞いたものだから、そのあとの乗務で加藤酒造店のそばを通るときは、由香が作業しているのが見えるのではないかと気にしていたら、坂下が乗務する日中の下り志野原行のディーゼルカーが美濃織部駅に停車しようとしているときに、使われていない側線の貨物ホームに母子と思しき2人が立って列車に手を振っているのが見えた。 もしや…と思いながら気を付けて見ていると由香にまちがいない。坂下が手を振ると由香も気が付いたようであった。少し太ったような気もした。いっしょにいる2歳くらいの男児は由香の子であろうか。懐かしい思いと同時に母になっていた由香がいることが受け入れ難かった。  その列車が終点志野原駅に到着後、坂下はそのまま折り返す上り多示見行列車に乗務することになっていた。その上りの多示見行列車は、かとう食堂があった近くの踏切を通って美濃織部駅に進入していった。坂下は到着監視のため乗務員室扉の窓から顔を出すと、日中の閑散としたホーム上に列車の方を見ている母子の姿があるのに気が付いた。それが由香とその子であることはすぐにわかった。 由香は坂下がいる乗務員室の方に男児の手を引いて近寄ってきて、 「わぁ、おひさしぶり~。この子が電車好きでね、よく家の前で電車見てるんだけど、坂下さん見たの今日がはじめて。」 そういう由香のお腹が大きく膨ら…

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【1405】 側線との‘ゆかり’(第12話)

 車掌班に降格した坂下であったが、それは専務車掌になってから乗らなくなった支線の多明線に再び乗る機会ができることを意味していた。降格という不名誉なことではあったが、久しぶりに坂下は多明線の列車に乗務できることを楽しみにしていた。さまざまな人々との出会いと思い出があった多明線であったし、多明線は1987年(昭和62年)3月から国鉄の手を離れて第三セクター鉄道「陶都縦貫鉄道」に経営が移管される運命にあったから、第三セクター移管後は国鉄とは関係がなくなる。坂下がこのまま民営化後にJRを名乗る新会社に採用され乗務員を続けられたとしても、陶都縦貫鉄道の列車に乗務する機会はもうなくなるわけだから、多明線の列車に乗務できることを楽しみにしている坂下の感覚は変というわけでもなかった。その第三セクター化まではあと3か月に迫っていた。  1986年(昭和61年)11月、車掌班に格下げされた坂下が久しぶりに乗務する多明線上り多示見行ディーゼルカーが美濃織部駅に着いた。キハ40単行運転の身軽な列車だが、それでも空いていた。坂下が専務車掌になって多明線から離れているうちに、朝の通勤通学時間帯の列車以外はすべて減車され単行運転になっていた。この日も、閑散とした美濃織部のホーム上で列車を待っていたのは60代くらいの女性1人だけで、降車客はなかった。 すでに無人駅になっていた美濃織部駅から乗った乗客には車掌が乗車券を発売しなければならない。発車してすぐ坂下は客室に入り、乗車した女性に「どちらまでですか?」と尋ねると「…

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【1404】 側線との‘ゆかり’(第11話)

 坂下俊平と加藤由香がスリーナインで逢った翌年1983年(昭和58年)夏に、坂下のもとに由香から手紙が届いた。中には便箋のほかに印刷された結婚挨拶状が同封され、その挨拶状の差出人は「加藤宗春(旧姓棚橋)・由香」とあった。 便箋には次のように綴られていた。 「坂下さん、ご無沙汰しています。実家の杜氏さんに相談したら、私が本気であることを理解してくださり、近年中に今の会社を退職して夫婦で織部に移り住み、私は蔵人に混じって見習として働き始める予定になっています。杜氏さん自身も新潟で若い後継者探しには苦労されていたようで、必要な人数の若い蔵人を私ども夫婦で確保することさえできれば、酒造りの教育をしてくださり、5年程度を目途に私を一人前にして、杜氏さんはそのとき引退するつもりだとおっしゃいました。私が酒造技術の習得に励んでいる間に、夫は営業に従事しながら加藤酒造店を今までの慣習にとらわれない酒蔵に生まれ変わらせて経営基盤を作りたいと言っています。夢の実現に向けて線路が敷かれ始めました。  家を継ぐことと自分の杜氏への夢との挟間での悩み、就職したばかりの会社での失望と迷いの渦に吞み込まれそうだった私でしたが、坂下さんに背中を押していただいてここまで来ることができました。感謝しています。お元気でね。 No Reply Necessary  加藤由香」 とあった。  スリーナインで由香の運転する自動車を見送った日から1年半以上が経っていたから、坂下はその間に、労組の青年部が企画するデパート店員とか…

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【1403】 側線との‘ゆかり’(第10話)

 それから4か月が経ったその年(1981年〈昭和56年〉)の12月。多明線のディーゼルカーに乗務していた坂下は乗務員室から、また仕込みの時期を迎えて湯気がもうもうと立ち昇っている加藤酒造店を眺めていた。由香からはあれから何も連絡はなかったが、その日、多明線の乗務が終わった坂下が寮に帰ると、由香から手紙が届いていた。 「年末は大晦日31日に織部に行って年明け1月3日には神戸に戻ります。時間が取れないので、31日に織部に行く途中か、3日に神戸に戻る途中に、夏に行った多示見の喫茶店スリーナインで待ち合わせということでいかがでしょう。時刻はそちらに合わせるようにしますから待ち合わせ日時を指定してください。」 とあった。坂下は勤務表を見ると、31日~元日・2日~3日が泊り勤務で、3日は午前中の勤務明けなので午後なら待ち合わせ場所へ行くことは可能だ。さっそく「1月3日14時で」と書いて返信した。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・  1982年(昭和57年)1月3日、喫茶店スリーナインで待っていた坂下のもとへ、由香が14時ちょっと前に現れた。紙袋一つを持っているだけで、兵庫へ帰る途中とは思えないほど身軽だ。 「おひさしぶり。待った?」 「いや、今来たばかり。えらく身軽のようだけど荷物はないの?」 「えへへ、国鉄さんにはわるいんだけど、クルマ買ったの。だからこれから帰省はクルマ。」 そう言って、窓越しに見える駐車場のほうを指さす先に…

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【1402】 側線との‘ゆかり’(第9話)

 翌日、坂下俊平と加藤由香は多示見市内の喫茶店「スリーナイン」にいた。  坂下の身辺は大して変わりがなく、変わったことと言ったら多明線の貨物列車が廃止された結果、美濃織部で長時間止まる列車がなくなって、かとう食堂へ行くことがなくなったことぐらいだったから、由香に話すことはそれほどなかった。しかし由香の方は新しい生活環境にとまどいがあるようで、半年たらずの間にやや痩せたように見えたが、以前より垢抜けた感じが漂っていた。  彼女が言うには、せっかく大学で醸造を学んだから就職先では営業部門でなく製品開発か製造部門を希望していたのに、その知識を活用するような仕事には就けなかったとのこと。配置された部署は製造部門には違いなかったが、事務仕事で電話と雑用で暮れる毎日で、その電話も営業担当からの無理難題や外部からのクレームばかりで、真っ当なことを返答しても納得してもらえず、ストレスが溜まりっぱなしのようだ。少しずつ社内のことがわかってくると、この先ずっとあの会社にいても、自分のしたい酒造りができる日が果たして来るのか不安になったという。しょせん女性は事務仕事か補助的な仕事という当時の一般社会にありがちな人事配置がされていて、大手の酒造会社であっても、この先、目指す道に続く厚い壁を乗り越えるのは難しいと感じ取ったという。それを聞いた坂下は言った。 「そういうことなら原点に戻って、家で杜氏さんに将来は酒造りに直接かかわることを夢見ているという意志だけははっきり伝えておくといいのでは? 当面、家では直接製造…

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【1401】 側線との‘ゆかり’(第8話)

 この年(1981年〈昭和56年〉)の3月いっぱいで多明線の貨物列車が廃止された。美濃織部駅の貨物ホームにいつも留置されていた貨車がいなくなったことによって、坂下が乗務するディーゼルカーの車窓から加藤酒造店の敷地全体が丸見えになり、そこにはときどきトラックが来て製品の積み出しをしているのが見えた。 一度銀色のタンクローリーが来ているのも見た。それが向かう先は、きっと由香が言っていた京都伏見にある大手酒造メーカーなのだろう。坂下はそういう風景を見るたびに由香はどうしているのだろうか気になっていた。何か力になれることなら手を貸してやりたかったが、坂下にできることは何もなく、くやしく思っていた。  ゴールデンウイークが始まろうとしていた4月下旬になって、また由香から手紙が届いた。忙しい日々を送っていて連休は帰れなくなったこと、仕事は製造部門なのに事務仕事ばかりでちょっと残念だということ、夏のお盆休みには必ず帰るつもりにしていること、そして寮の呼び出し電話は事務室にあり、みんなが聞き耳立てているので架けないでほしいということも書いてあった。ゴールデンウイーク中、乗務員はなかなか休めないのだが、1日くらいは由香に会ってまた話を聞きたいと思っていた坂下はがっかりした。それでも、由香からの便りがあって少しは安心し、健康に気を付けて夏には会おうと返信を書いた。  その後、しばらく由香からの連絡はなかったが、坂下は少しくらい酒造りの知識を身に付けて由香の話についていきたいという思いもあって、書店に…

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【1400】 側線との‘ゆかり’(第7話)

 年が明けて1981年(昭和56年)2月。美濃織部駅の助役が前に言っていたとおり、この駅の側線を利用した貨車による酒の発送はなくなり、多明線内の発送・到着貨物がすべてない日には貨物列車そのものが運休することが目立つようになった。坂下が1月に乗る予定だった日も運休になった。多明線の貨物列車が廃止されるのは時間の問題であることが現実味を帯びてきたようであった。  年末に加藤酒造店に出かけてから、坂下は多明線のディーゼルカーで美濃織部駅を通るたび、それまで気にも留めなかった「千寿乃泉」と書かれた加藤酒造店の煙突や建物に親しみを覚えるようになり、車窓から眺めるのが習慣になった。  早朝のディーゼルカーの車窓からは、霜がびっしりついた冬景色のなか、加藤酒造店だけ活気があって、もうもうと白い湯気が上がって、仕込の真っ最中であることが伝わってきた。由香が2月になれば新酒ができると言っていたから、このところ乗務のたびに店蔵の玄関にぶら下がっている杉玉を気にしていたが、多明線のディーゼルカーに乗務していた2月のある日、坂下はそれまで掛かっていた茶色に変色した杉玉が取り外されて初々しい緑色の杉玉がぶら下がっているのを見た。  その翌日、泊り乗務が終わると坂下は寮へ帰らず、すぐ多明線の列車で美濃織部へ向かっていた。加藤酒造店の新しい杉玉が掛かったその下の戸を開けると由香が電話をしていて、こちらを振り向いて電話で相手と話をしながら手を振って迎えてくれた。電話が終わると 「いらっしゃい。先週からしぼりた…

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【1399】 側線との‘ゆかり’(第6話)

 午後の多明線の下り列車から美濃織部駅で降りた3人組がいた。それは坂下と、同じ寮に住む酒飲み友達2人であった。 坂下が先頭切って加藤酒造店の店蔵の戸を開けると、薄暗い店内には誰もいない。 「ごめんくださ~い」と大声で叫ぶと、遠くから「は~い、今行きまーす」と、声が聞こえた。少し間があって隣の貯蔵棟のほうから足音が近づいてきて、 「いらっしゃいませ。」と言いながら由香が姿を現した。 坂下が 「先日はお酒をいただきありがとうございました。」と言ってから、由香は坂下の顔を見て、さらに間があってから、ようやくそれが坂下と気付いて、 「あら~、いらっしゃいませ。今日はお友だちもご一緒ですか。」 と言った。 「先日はお気遣いありがとう。寮でこの2人といただきましたら、おいしくて一瞬で空っぽになってしまいました。こんどはもっとよく味わって飲もうかと思って買いに来たんです。」 「そう、それはよかったわ。せっかく来てくださったんですから、今日はお時間さえよければ、別のお酒も試飲してみてください。この前お渡ししたのは、去年から熟成させて秋口に蔵出ししたお酒だから、まろやかだったと思うわ。うちの杜氏さんの自信作で、秋のうちに捌きたかったんだけど、なにぶんにも田舎でしょ。いいお酒でもうちのような小さな蔵では販売力がないから年末までたくさん残しちゃったって、父と杜氏さんはがっくりしてました。できれば多くの人に飲んでいただきたいんで、駅にも持っていきました。」  その日、由香は酒には素人の3人に幾…

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【1398】 側線との‘ゆかり’(第5話)

 そんなことがあってから4か月が経とうとしていた12月のある日、坂下はまた多明線の貨物列車の乗務で美濃織部駅に来ていた。例のごとく側線で入換作業のあと機関士といっしょにかとう食堂へ行こうとしていると、駅舎のほうから助役が 「車掌さん。ちょっと来て。」 と呼ぶ。今日の入換作業では何の問題もなかったはずだがなあと思いながら、機関士には先にかとう食堂へ行ってもらうことにして駅に行くと、 「お客さんが待っとるよ」 と助役が改札口の方を指さしている。改札口の近くで坂下を待っていたのは酒屋の娘「加藤由香」であった。 坂下が「あれ~ 今日は何でしたか?」というと、 「あのときはいろいろ手配していただきありがとうございました。今は冬休みなので帰ってきて駅の人にお礼を言ったら、車掌さんが切符を見つけてくれたことを聞きました。車掌さんにも一言お礼を言いたいですって駅の人に言ったら、車掌さんはこの線ばかりに乗っているわけじゃないから、いつ来るかわからんよと言われました。私、この冬休みはもうバイトはしていないので毎日家で手伝いをしているのです。私の家はそこの造り酒屋で、昼過ぎにうちの目の前の貨物ホームまで貨物列車が入ってくるのはわかっていました。その時刻に、入換作業しているのをときどき気にしていたのですが、先ほどお見かけしたので飛んできました。これはうちで造ったお酒です。ホントは秋に売り切ってしまうお酒なので、売れ残りで申し訳ないですが、ひと夏貯蔵して熟成されたお酒なのでおいしいはずです。」 と言って坂…

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【1397】 側線との‘ゆかり’(第4話)

 多示見駅に着いた坂下は乗務してきた列車でそのまま多明線を志野原まで折り返すことになっていた。本線の上下列車から乗り換えてくる客を受けてからの発車なので発車時刻まで20分ほどあるし、多明線のホームにも、そして車内にも乗客はまだいない。ホームにある自販機で冷たい缶コーラを買って、帽子を取って客室で休憩する。 「ゆかちゃん」が座っていた座席に腰を下ろし、プシュとコーラの缶を開けると、すぐ脇を名古屋行快速列車が発車していくのが見えた。彼女はあの列車の先頭車に乗っているはずだと思いながら、何気なく車内の下の方に視線を落とすと、座席と壁面の隙間に切符が挟まっているのに気が付いた。到着直後に駅の案内係が車内点検をしているはずだが、この狭い隙間までは気が付かなかったのだろう。見ると名古屋から東京までの新幹線自由席特急券で、美濃織部駅で当日発行されたものであった。 おそらく彼女の落とし物だろう。乗車券は見当たらない。冷房がなく窓が開いていたから、座席に切符を置いたとき風に吹かれて特急券だけ隙間に落っこちたのに気付かなかったのかもしれない。しかしこの車両は今朝から多明線を3往復くらいしていたはずだから、挟まっていた切符はもっと前に乗った乗客のもので、気付かれずにいたのかもしれない。坂下がこのまま志野原まで折り返す列車の発車時刻までまだ15分ほどあった。坂下はコーラを一気飲みして席を立ち、発車時刻までの間に、ホームにある乗継詰所から美濃織部駅に電話して拾得した特急券のことについて聞いてみることにした。 …

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【1396】 側線との‘ゆかり’(第3話)

 坂下が車掌になったばかりだった1979年(昭和54年)当時、坂下が勤務していた車掌区では、車掌は27日間で一回りする乗務割が組まれていた。乗務する線区は本線が多かったが、その乗務割を一回りする間に多明線乗務が、貨物列車1往復の日勤行路1回(休日運休)と、旅客列車の泊り行路が2回(計4日間)あった。つまり、多明線に乗るのは27日のうち5日間だけであって、27日ごとに同じ列車に乗ることになっていた。本線に比べローカルな多明線の乗務は、無人駅が多くて忙しかったが、精神的にも肉体的にも楽であったし、なにより駅員や乗客がのんびりしていたので坂下はこの線の乗務が好きだった。  坂下が初めて多明線の貨物列車に乗務した日から27日後、2回目の多明線貨物列車に乗務したのは、年が明けて1980年(昭和55年)1月であった。その日の美濃織部駅では連結も解放もなかった。入換作業があると、作業が終わったらあわてて昼食を食べなければならないが、こういう日はゆっくりできる。中間駅である美濃織部駅でこんなに長時間停車するのは連結解放がある下り貨物列車ならではのことであって、機関士と車掌がいっしょに、かとう食堂へ行くのが定番となっていた。機関士と車掌は職場が別で勤務形態も違っていたので、この日の機関士は27日前に乗務した声が大きい定年間際の人ではなく、40代と思われる人だった。2人でかとう食堂へ行ってテーブル席に座り、注文を取りに来た奥さんに2人とも生姜焼定食を頼んだ。バイトのあの娘はいない。冬休み中のバイトだと言っていた…

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