【1445】 一枚の画像から:その20「レサ10000系 とびうお」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年9月25日  山陽本線 瀬野 5050レ「とびうお」 倉敷の翌日は瀬野八へ行っていました。この年1974年のRF誌7月号に瀬野八の特集記事があったので、それに刺激されてのことでした。 以前にこの撮影行のことは書いており、そこには夜行列車を宿代わりにしたとだけ書いていますが、山陽路を急行山陽5号下関行に乗って、たぶん下関?で下車し、宮崎始発大阪行の急行「日南3号」で折返しています。「日南3号」に2両連結されていたスハ44に乗車して、未明の瀬野でその同級生とともに下車したという行程でした。 その日撮影したモノクロフィルムの最後の2枚にレサ10000系特急貨Aが写っていました。そのRF誌の記事によると日中の撮影可能な時間帯に撮影できる補機付きの特急貨Aはこの列車だけで、瀬野は通過。その時刻は12時04分とあります。そんな列車なのに駅撮りでごまかしてあるのは、帰りの列車の時刻が気になっていたために違いありません。この列車を外したくなかったので、この時間まで粘って帰路についたと言えるのかもしれませんが、カラーで撮っておけばよかったのにと思います。そのあたりの記憶はありません。この日は、もう一台のカメラにはカラーフィルムを装填してありましたので、カラーフィルムを使い果たしたのかとも考えましたが、カラーネガフィルムを見ると、この画像の左側に写っているクモハ73の列車全体が…

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【1444】 一枚の画像から:その19「481系 つばめ」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年9月24日 山陽本線 倉敷 クリームラインが入った赤スカート481系下り「つばめ」で、画像左が先頭で右は同じ列車の後追いです。右(最後部)のクハ481はロール式ヘッドマークに換装されています。このころの時刻表を見ると「つばめ」はL特急になっていて岡山~博多・熊本間上下8往復が運転されていました。この日、倉敷に来たのは午後の遅い時刻だったことがわかっていますので、この画像は下り「つばめ」で6号あたりから8号までのいずれかであるという見当はつきました。カメラはカラーとモノクロ各1台で撮影したので、特急列車の多くはカラーで撮影しています。そしてカラーネガに写った列車のヘッドマークを頼りに撮影順序と時刻表と照合していくと、写っている特急列車がほぼすべて特定できました。なぜか、そのとき撮影した特急列車のうちで、この列車だけをモノクロで撮影していて、このネガフィルムの順番だけでは列車の特定は難しかったのですが、分岐していく伯備線が見えるので場所の特定は容易です。カラーネガの撮影コマ順で、下関方へ徒歩で移動しながら山陽本線と倉敷臨海鉄道の列車撮影をして、この日一番の目的であった夕刻の倉敷臨海鉄道3両編成の列車を倉敷市駅へ戻って撮影したという足どりが分かりましたので、時刻表の列車順序と照らし合わせれば、この画像は1027Mつばめ8号以外にはあり得ないと判断しました。 この半年…

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【1443】 一枚の画像から:その18「コキ50000系フレートライナー」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 前回の「しらさぎ」と同じ日、1974年4月28日  北陸本線 敦賀~新疋田  貨物列車にも特急はあります。画像はEF70が牽くコンテナ列車で最後尾にはコキフが連結された特急貨物列車です。当時は特急貨物列車には10000系貨車で組成された特急貨A(最高時速100キロ)、50000系貨車で組成された特急貨B(最高時速95キロ)の2種類があり、確か53.10ダイヤ改正時から高速貨A・高速貨Bと名称が変わりました。これがカラー画像であれば10000系貨車なら青、50000系貨車なら明るい茶色なので、その区別は容易ですが、モノクロでしかも画像が鮮明でなく被写体も小さいので判別するのはちょっと難しいかもしれません。それでもよく見れば積載されているコンテナは白帯C20(在来の5t・11ftコンテナを大型化して12 ft長としたコンテナ)が多いようです。わずかですが私有の10t(20ft)コンテナが3個積載されているコキも視認できます。12ftコンテナを5個又は20ftコンテナ3個を積載できるコキは当時コキ50000だけ(10000系貨車は当初11ftコンテナだけに対応しており、12ftコンテナが標準になった時点で改造されたことによって、12ftコンテナを4個又は20ftコンテナ2個までとなった。)でしたから、この列車は50000系貨車で組成された特急貨Bであることがわかりますが、列車…

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【1442】 一枚の画像から:その17「581・583系しらさぎ」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年4月28日 北陸本線 新疋田~敦賀  23M しらさぎ2号 敦賀駅から鳩原ループへ歩いて行く途中の線路端で撮影しました。北陸本線に挟まれた敦賀第二機関区あたりです。手前の線路は小浜線ですので、列車が走っているのは下り線です。下りの富山行を後追いで撮影したことがわかります。カメラは2台持っていて、カラーで近付いてくるところを撮影し、後追いはカラーフィルムの消費量を抑えるためモノクロが入ったサブカメラで撮影したのではないかと思われます。小浜線が電化されたことを除けば、背後の建屋も含め風景は今もあまり変わっていないように思えます。 581・583系による「しらさぎ」は1日1往復だけでしたから、外せない被写体でした。しかし撮影する立場と乗務する立場では評価が逆になることは非常に多いように思います。この「金星」~「しらさぎ」のことはRJ誌の追跡記事で書かれているので、ご承知の方は多いと思いますが、車掌サイドでは不評だったようで、1978年(53.10)ダイヤ改正で581・583系の「しらさぎ」運用は廃止されています。

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【1441】 一枚の画像から:その16「80系気動車(キハ81)くろしお」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月24日 関西本線 名古屋駅 2D 関西・紀勢・信楽線のSL撮影の帰路に撮影した上り「くろしお2号」です。ネガフィルムに記録されたSL列車とSLダイヤ情報誌を対照していけば、帰路に関西本線亀山から名古屋まで乗車した列車は224列車であったことが特定できました。当時の時刻表によると、その224列車の名古屋着時刻が17時17分で、この2D「くろしお2号」の名古屋着時刻は17時52分となっていましたから、関西本線の上り列車から降りた後、「くろしお2号」の到着を待って撮影するという計画的行動だったように思います。一部の「くろしお」にキハ81が転用されたのは、この前年10月のダイヤ改正からでしたから、キハ81に興味を持っていたのは確かです。しかし、実際に見てみれば薄汚れていて、かなりくたびれている印象を持ちました。天王寺を9時10分に出て8時間30分余りをかけて紀伊半島を回って名古屋までくる長距離列車でしたが、1978年(53.10)のダイヤ改正で西側は新宮まで電化され、キハ81は引退して「くろしお」は381系電車化されました。未電化で残った東側の特急はキハ82を使用した「南紀」として系統分離されました。

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【1440】 一枚の画像から:その15「80系気動車 日向」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線 宮崎神宮駅 4002D この画像も以前の記事で公開をお約束していた80系DC特急「日向」です。その記事に書いたとおりで、ネガ袋に撮影場所の記録がありませんでした。ネガのコマ順と行程表から推定して弘済出版社刊「最新SLダイヤ情報(春夏特集)」で確認した結果、宮崎神宮駅であると特定した画像です。宮崎発大阪行昼行特急で、この時代は小倉で「なは」と併結されていて、この年10月改正ダイヤ以後は「なは」の電車化で分離運転になったようです。この時期の全国版時刻表が手元になく詳細な時刻などは特定できませんでしたが、前年の新幹線岡山開業時点では宮崎発は9時30分で大阪着は22時43分となっているので、たいして変わっていないのではないかと推測します。撮影時点では食堂車が「なは」編成にあり「日向」編成にはなかったようですが、分離運転後の時刻表には食堂車連結の表示があります。

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【1439】 一枚の画像から:その14 「181系気動車しなの」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。今回から7回ほどにわたって国鉄の特急列車のモノクロ画像をアップしていきますが、そこで「一枚の画像から」シリーズ記事は打ち切らせていただきます。 時刻表をまったく買うことがなくなって6年経ちました。列車を乗り継いで旅をすることがなくなったこともありますし、ちょっと時刻を調べるくらいならスマホアプリを使うか、調べもの程度のことでも駅や図書館にある時刻表をちょっと拝借すればいいので不便を感じることがありません。現在の時刻表が必要なくなった私ではありますが、過去の時刻表を紐解く機会はときどきあります。たとえばこの度のネガフィルムの廃棄にともなうデータ確認と、このシリーズ記事を書くにあたって、保管していた過去の時刻表のページを幾度も開く必要がありました。そうした調べものをしている間にも、その調べものに関係のないほかの列車やほかのページがついつい気になって開いてしまって時間を無駄遣いしてしまうこともありました。それほど昔の時刻表には見どころが多かったように思います。もちろん今の時刻表でも、この先何十年か後になれば、まだ全国にJRの在来線がつながっていた時代の末期ダイヤとして、あるいはコロナ禍直後の減量ダイヤとして歴史的価値を生むのかもしれませんが、在来線に長距離列車があふれていた国鉄時代の時刻表にはかなわないだろうという気はします。 変な前置きになりましたが、古い時刻表で時刻や編成を確…

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【1437】 一枚の画像から:その13「中央西線D51の末期3」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月22日 中央西線 田立~南木曽 5881列車 本務機D51245(中) 後補機D51401(木) 中央西線のD51最末期の画像で、この直後に田立~南木曽間は新線に切り替えられ、地下鉄のように長いトンネル区間になりました。この5881列車は後補機が付いた下り貨物列車だったので、なんとか1枚の画像に先頭から後補機までを収めてみたいと仲間内で話していて、線路付替えになるために架線が張られてないこの場所へ3~4人で着た記憶です。しかし日が傾いた夕方に中央西線の下り列車を撮影するとどうしても逆光になりますし、そもそも木曽谷では地形的なこともあって、列車の全容が見渡せる撮影スポットがかなり限られました。SLゆえに上り勾配である場所であることも条件となりますが、気温が高いこの時期にはブラストには勢いがあってもケムリは少なく、2日前にも同じ場所で撮影したこの列車の画像が残されていますが、どちらも思ったような絵にはなっていません。後補機のケムリが見えるだけいいかと思って、こちらの画像をアップしておきます。期限が迫ってドタバタしても納得できる写真を撮れることなんかできないと教訓を得るわけですが、そういう教訓は幾度無駄にしたことかと反省します。 本務機D51245、後補機D51401とも中央西線を最後に廃車されたあと、中央西線沿線ではないものの長野県内に静態保存されて…

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【1436】 一枚の画像から:その12「中央西線D51の末期2」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月3日 中央西線 落合川~中津川 この日のネガフィルムには落合川の木曽川沿いに中学時代の非鉄友人が写っているコマがありました。そのことから記憶がよみがえりました。この日だけは彼と2人で、家から自転車で1時間以上かけてここまできたのでした。たしか彼もお父さんのカメラを持ってきていたんじゃなかったかな。 機関車のナンバーは画像から読み取れませんが、D51 201号機であることをネガ原版で確認してあります。(次位機DD51のナンバーはさすがに読み取れませんでした。) 列車番号も記録してありませんが、当時の弘済出版社刊「最新SLダイヤ情報春夏特集号」に収録された列車ダイヤとネガフィルム順から列車は828列車と特定できました。当時すでに定期客列車はDL化されていたのですが、多客期の増結によるためかD51 201が先頭に立っていました。このD51 201は中部地方各地を転々とした履歴を持ち、昭和20年代には多治見機関区に在籍したこともあったようです。中津川では2年ほどの在籍で、その後は愛知県蒲郡市内に保存されています。数年前に再会したところ、集煙装置もそのままに、華美な装飾もなく、この時代の雰囲気をよく残していて大変好感が持てました。 当時の列車ダイヤによれば、このあと4014Dしなの2号、9824Dが1時間以内に続いていました。ネガフィルムのほうは、この画像の…

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【1435】 一枚の画像から:その11「中央西線D51の末期1」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 私がカメラを持ったとき、中央西線ではすでに名古屋から中津川までが電化され、中津川から塩尻までの電化工事と一部区間の複線化工事が進みつつあり、中津川以北のほとんどの貨物列車をD51が牽引していました。電化工事が竣工したのは1973年5月下旬で、そのときからD51はEF64に置き換えられました。その年の4月から5月にかけて、集中的にD51の撮影をしていましたので、ネガフィルムの消費量が多くなりました。今回からその最後の1か月に撮影した画像を3回に分けてアップします。 1973年4月29日 中央西線 十二兼~野尻 3893列車 D51 435(中) 高校では、中央西線の蒸機にたいへん詳しい同級生が複数いて、私は彼らから多くのことを教えていただきました。それだけでなく、電化完成までのわずか2ヶ月足らずの期間に何度も撮影に誘っていただいて木曽路に足繁く通いました。その往き帰りや撮影の合間に彼らから中央西線に在籍したD51の1両ごとの特徴や前歴など私の知らない話をたくさんお聞きしたものです。 上の画像の435号機は、長工式集煙装置を装備した中央西線スタイルでキメているように見えますが、前年に会津若松から238号機とともに中津川へ転入してきた「よそ者」で電化までの場つなぎ的に使用されたD51でした。副灯があるのは会津若松時代の名残でした。このあと435号機は6月に長門…

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【1431】 一枚の画像から:その10「入換作業の様子(高鍋駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線高鍋駅 3589列車の入換作業中 SL末期になると、無煙化によって不要になったSLのうち検査期限に余裕があるものは廃車せずに、他線区で検査期限切れになったSLの代替用としてコンバートされる例が全国規模で目立つようになりました。このC61もこの画像を撮影したときの前年に青森から宮崎へ転属してきたもので、在来配置のC57とともに客貨の区別なく使用されていたようです。 機関車に添乗して手旗を振っているのは操車掛でしょうか。この先の入換作業内容はまったくの想像でしか申せませんが、本編成から前寄りの貨車3両を引き上げている場面のように見えます。2両目の貨車のステップには構内係が添乗しているのもわかります。2両目に添乗している理由は、引き上げ後に2・3両目間の自動連結器を解錠する作業に備えているのでしょう。 ネガフィルムの次のコマが下の画像です。以前にもアップした画像ではありますが、サイズを大きくして再掲載します。 この画像では貨車のステップに添乗している人物が身を乗り出して手旗を振っているように見えますから、前の画像で機関車に添乗していた操車掛でしょう。機関車の煙と人物の向きから、後退している場面であることがわかります。貨車が2両に減っていますので、この2枚の画像を撮影した間に1両をこの駅で切り離したということになり、これから本編成に連結す…

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【1430】 一枚の画像から:その9「入換作業の様子(中津川駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年6月23日 中央西線中津川 中津川駅でC12が入換作業をしているのを見る機会は幾度もありました。入換作業で連結される車両はどういう目的でどの線へ転線させるのか、作業従事者には個々にどんな役割があるのかなどを予め理解していれば、作業内容や技術、そしてチームワークに惹き込まれたのでしょう。しかし、「列車ではないし、たかが入換作業」みたいな気持ちがあって、意外と撮影していませんでしたし、細かく作業内容を観察していたわけでもありませんでした。この画像も翌月にDL化を控えていた時期にあわてて撮影したものでした。貨車中心の入換作業のなかで、夕刻に中津川に着く下り普通客車列車から切り離された後部3両の客車を名古屋方に引き上げて側線に押し込む作業がありました。いつもの貨車入換と違って客車の入換はこの時間帯だけ。そういうことは部外者にもわかりますし、日没が遅い時期でないと撮影することは難しい時間帯でした。それが目的でDL化される間際にカメラを持ち出して幾度か出かけたのでした。時刻表と記憶を重ね合わせると、その客車列車は夕刻18:22に中津川に到着する名古屋発木曽福島行835列車だったはずです。この画像では手旗で誘導されていますが、合図灯を使用される日もある微妙な時間帯でした。 どうでもいい話ですが、無線機と違って手旗や合図灯による通告合図はその色と動きで相手者に意思を伝達で…

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【1429】 一枚の画像から:その8「入換作業の様子(上松駅)」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年5月20日 中央西線上松 このころ、中央西線上松駅からは王滝森林鉄道が分岐しており、木曽の山奥から輸送されてきた木材など貨物の発送があり、午後になると隣の木曽福島からC12が回送されてきて入換作業が始まりました。構内には762mm軌間の森林鉄道と線路を共用する3線軌道になった側線があり、そこで撮影することがこの日の目的のひとつでした。画像は、その3線軌道区間から森林鉄道の軌道が分岐していく地点です。こうした珍しい分岐器そのものの画像が見当たりませんので、撮影さえしておかなかったのでしょう。 このC12 164は現在は動態ではないものの大井川鐡道の新金谷駅に常駐し展示されていますので、かなり多くの国民の被写体になっている機関車と言ってよいでしょう。大井川へ行く前の国鉄最後の職場がここだったわけです。上松時代も今も正面の形式入りナンバープレートが目立つ機関車でしたが、当時はシールドビームにクルクルパーという一般受けしない装備でした。しかしながら、今見れば、その時代背景や地域的特色を表す要素だと思いますし、変に着飾って厚化粧した姿とは違って、年季の入った作業服を着用し実用本位の装備で固めて作業をしている職人の姿が連想されて私は好感を持っています。 手旗で誘導する操車掛の左腕には白い線が入った腕章が着用されているように見えます。その腕章は下の画像と同じものだ…

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【1428】 一枚の画像から:その7「写りこんだ昭和の鉄道風景4」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 今回の「昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノ」は「車両」です。 1974年8月20日 中央西線木曽福島 この日のことは以前にも書きましたが、梅小路蒸気機関車館の動態保存機C61 2が長野工場へ検査入場のため無火回送されている画像です。 木曽福島駅を発車していくところを後追いで撮影していて、撮影時にまったく気にもかけなかったワフ22000が写っていることに今になって気付きました。当時はワフ22000などまったく当たり前に貨物列車に連結されていたので、こんな緩急車をわざわざ貴重なフィルムを消費して記録に残すつもりなどありませんでしたが、C61という被写体があったからこそ写り込んだということです。 1974年時点でのワフ22000の在籍数がわかる資料は手元にはないのですが、その3年前の1971年3月31日現在の在籍数は鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション24「貨物輸送」からわかりました。それによればワフ22000は913両も在籍しており「ワフ」全形式のうちで最多両数を誇っていました。「ヨ」を含めた貨車の緩急車の中でも、最多だったヨ5000(在籍数1130両)に次ぐ多数派となっており、まったく珍しくもない緩急車であったことがわかります。 実はこの画像を撮影した1974年に後継形式ヨ8000が200両デビューし、北海道と四国に集中配置されていました。そしてヨ8000は…

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【1427】 一枚の画像から:その6「写りこんだ昭和の鉄道風景3」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 今回も、昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノが写り込んでいると言いたいところですが、モノでなくコトです。 1974年4月28日 東海道本線米原駅 159系電車 中京快速に充当された159系が米原に到着した直後だと思われます。この画像では、ホーム反対側の扉が開いているコトに気が付きます。 ドア脇上部に設置されたサボ受けのサボの差し込みや抜き取り作業のため、国鉄時代には列車折り返し駅でよく見られた光景でした。自分がそのためのドアの開閉作業に直接絡んでいたのですから、危険なことをしているということは当時でも意識していました。ホーム反対側の扉を開けるときには必ず直前に車内放送で予告をしたのは当然で、ドアは一気に開けるのではなく、扉を開閉する車掌スイッチをバタバタと開・閉・開・閉・開というように小刻みに操作して、ドアが開きかけたらいったん閉めかけるという動作を2~3度繰り返すようにして、ドアにもたれかかっている乗客やドア付近にいる乗客に注意喚起をしていました。 ところで、この画像に1番線の表示が左側ホーム上屋から釣り下がっているのが見えます。1番線は米原駅の東側(新幹線の反対側)にあたりますが、現在はJR米原駅の1番線にはホームがありません。そして線路の位置もJRになってから東海道下り線が西側に移転集約されましたので、このあたりは駅の敷地ではなくなっています。 …

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【1426】 一枚の画像から:その5「写りこんだ昭和の鉄道風景2」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月23日 関西本線 柘植~新堂 荷41列車 この場所は上りの臨客狙いで来た場所だったので、下り勾配を惰行で下ってくるこの列車は、メインの列車ではありませんでした。ケムリもなく、どうにもならない絵でありますが、今となると失礼ながら安っぽいヘッドマークを無理やり取り付けたSLが12系を牽く臨客より、荷物列車の先頭に立って黙々と日常業務に励むD51のほうが優先順位が高い被写体だったという反省とも後悔ともつかない思いがあります。 この画像に写り込んでいるモノとは、右側の通信用の電柱です。当時の撮り鉄の間では「ハエタタキ」と呼ばれ、何本も通された通信線の存在もあって撮影の邪魔になる嫌われモノでありました。このときも、インカーブ側にあったこの「ハエタタキ」が列車の手前に来ないようにアウトカーブ側から撮影したのだろうと思います。この「ハエタタキ」、通信線の数が多い幹線ほど「ハエをたたく部分」の面積が大きく縦長になりましたし、ローカル線ではその逆でした。 「ハエタタキ」は昭和40年初めくらいまでは地元の中央西線でも見られ、私は列車に乗ると車窓から次々と現れる「ハエタタキ」を目で追って、個々の形状の違いなどを観察している変な子供でした。都会の子なら走行中に一瞬にすれ違う列車や並行して走る他の線区や私鉄の列車などに興味が向いたのでしょうが、田舎の単線区間では行き違いは駅に限ら…

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【1425】 一枚の画像から:その4「写りこんだ昭和の鉄道風景1」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 モノクロフィルムを使っていたころは、いつもフィルム残数を気にしながら列車や車両を中心に撮影してきました。今から思えば駅や施設、鉄道に働く人々の姿なども記録しておけばよかったと思いますが、中高生だった自分にそんな気はまるでなく、車両さえも被写体とすべき対象を絞って、それ以外のものを撮影するのはフィルムの無駄遣いみたいな考えしかなかったことは反省すべきです。 今回から4回連続で、昭和の時代の鉄道に珍しくもなかったモノが写り込んだモノクロ画像をアップしていきます。 1973年8月5日 日豊本線南宮崎駅 1211列車 列車は京都始発の急行「日南3号」都城行だと思われます。信号機が横を向いていますので、近いうちに腕木式から色灯式に変更されるのでしょう。DF50の運転室窓越しに通票キャリアが見えています。電化工事も進行中のようですが架線はまだ張られていないようです。長距離長距離夜行列車らしく荷物車の後ろには10系寝台車らしき姿が確認できます。たぶんその後ろは2両のオロ11を含む10系客車が続いているはずですが記録してありません。後に荷扱乗務員を経験することになった私としては荷物車にも目が向きます。荷物室の窓がいくつも半開になっていますので、締切輸送ではなく荷扱乗務員が乗務しているものと思われ、本州対九州の東側半分の荷物輸送を担う直通運用だったのだろうと想像します。 通票、信…

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【1424】 一枚の画像から:その3「中央西線の下で交差する名鉄瀬戸線」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1974年3月?日 名鉄瀬戸線大曽根~矢田 地平を走っていた600V時代の瀬戸線です。モノクロ画像ですが車体に白帯が入っていますので瀬戸線に特急があったスカーレット時代で、栄への乗入れ前ということになります。写っているガーダー橋は国鉄中央西線のもので、現在の名鉄瀬戸線は画面のさらに右(北)のほうで中央西線を高架橋でオーバークロスしています。このガーダー橋の下は道路になりました。撮影したのはこの下の地図中央あたりになりますが、付近の線路跡は残っていません。 この付近で撮影した同じようなカットが何コマか連続していますので、瀬戸線の列車と中央西線の列車と交差することを期待していたのかもしれません。 2つ後のコマには、このガーダー橋の上を走るクハネ583が写っていました。「金星」で到着した編成の寝台を神領電車区で座席に変身させて名古屋へ向かう「しらさぎ」の回送列車に違いありません。当時の時刻表の編成ページを見ますとグリーン車1両だけの「金星」間合い581・583系の下り「しらさぎ」富山行は23M「しらさぎ2号」となっており、名古屋発時刻は10時15分。このことから瀬戸線の列車も午前10時前あたりに撮影したものと推定できます。 およその時刻は特定できたわけですが、このネガフィルムの袋に日付が書き込んでない(消えてしまった?)ので特定できません。名古屋市電がこの年3月31日…

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【1423】 一枚の画像から:その2「九州のC57」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いています。 1973年8月5日 日豊本線 キャブのプレート類が写っています。区名札がプレートになっていて、それがちゃんと磨かれていたことから、「これはウチのオカマなんだ。恥ずかしくない機関車に整備しよう」という機関区員の機関車に対する思いが込められているような気がいたしました。地元で見た蒸機では、これほどきれいにされていなかったので、そういう諸々の思いがカメラを向ける動機になったように思います。撮影場所をはじめ撮影時の記録がされていませんが、ネガのコマ順と行程表から推定すると、日豊本線の高鍋から宮崎まで乗車した下り537列車の次位機であることが特定できました。前日に門司港から夜行急行「みやざき」に乗車して高鍋で下車してSL列車などを撮影した後、この列車に乗ったら思いがけず重連であったことを記憶しています。 当時現地に持っていってボロボロになった弘済出版社刊SLダイヤ情報(春夏特集)が今も手元にありますので、掲載されていた列車ダイヤを確認したところ、その537列車は宮崎神宮で上りの特急「日向」と、その続行の普通列車の2本をまとめて行き違い待ちをしていたことがわかりました。おそらく乗車中に長時間停車した宮崎神宮駅で撮影したことにほぼ間違いないと思われます。画像をコマ順に見ていくと、上の画像の次に露出不足のC57 169のナンバーが写った画像があり、続いてキハ80系特急「日向」、その…

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【1422】 一枚の画像から:その1「クモハ52」

撮影から約半世紀たったモノクロフィルムからスキャンした画像ファイルについて、その思い出や今思うことなどを書いていきます。 1971年5月5日 飯田線三河槙原駅 父といっしょに中部天竜へ行くために乗車していた下り列車と行き違った上り列車です。撮影時はどこの駅であったのか意識していたわけではありませんが、画像を見れば有名撮影地となっていた道路橋が写り込んでいるので三河槙原駅に間違いありません。 編成は鮮明でない画像からは特定しにくいですがクハ68+クモハ42+サハ75+クモハ52のように思えます。ネガのその次のコマには、この列車の最後部(辰野方)に連結されていた流電クモハ52が写っていました。 この画像を撮影した4年ほど前に小遣いで買った誠文堂新光社刊電車ガイドブックによって流電の存在を知ったのですが、実車を見たのがこのときが初めてでした。ふだん中央西線で見慣れていた70形電車と同じ横須賀色ながら、個性が強い車体は、かなり強く印象に残りました。 この日、飯田線に来る途中に名古屋~豊橋間で客車急行「高千穂」に乗った記憶がありましたので、その記憶が正しかったのか気になり、この記事を書く途中に、古い時刻表を保管している段ボール箱を開けてみると、都合よく1971年3月号が残っていました。東海道上りのページを見ると、ありました。急行「桜島・高千穂」となっており、鹿児島本線経由(桜島)と日豊本線経由(高千穂)との併結列車でした。「桜島」の記憶はなかったので、このときはおそらく「高千穂」編成に乗っ…

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